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Music Dialogue in KYOTO vol. 5 シューマンが響く秋の高台寺|能登原由美

Music Dialogue in KYOTO vol. 5 シューマンが響く秋の高台寺

2018年9月29日 高台寺利生堂
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
Photos by Ryosuke Yagi/写真提供:一般社団法人Music Dialogue

<演奏>
ヴィオラ|大山平一郎
ピアノ|酒井有彩
朗読|坂口修一

<曲目>
シューマン:子供の情景 op. 15
シューマン:幻想小曲集 op. 73(ヴィオラ版)
シューマン:歌曲「詩人の恋」 op. 48(ヴィオラ版、語り付き)
〜〜休憩〜〜
ダイアローグ(観客と演奏者との対話)
〜〜アンコール〜〜
シューマン:子供の情景 op. 15より「トロイメライ」(ヴィオラ、ピアノ版)

 

「対話=ダイアログ」をキーワードに、室内楽の魅力を伝えてきたMusic Dialogue。奏者間の「対話」はアンサンブルの成否にも大きく関わるが、彼らの活動においては、奏者と作者/聴者との「対話」も重視される。例えば、作品を仕上げていく過程(すなわち「対話」の過程)を公開する、演奏後に観客との「対話」の時間を設定する、など。あるいは、この度の公演で初めて取り入れたという「朗読」のように、異分野の表現者とのコラボレーションも、重要な「対話」とみなされるようだ。

オール・シューマンで臨んだ今回のプログラム。そのうちの2作品は原曲ではなく、本団体代表を務める大山平一郎によるアレンジ版。作者との「対話」はすでにそこから始まっていたようだ。プログラム2番目の《幻想小曲集》は、原曲はクラリネットとピアノによるもの。大山自らが演奏したヴィオラ版では、そのダイナミックな奏法と重厚な響きがシューマンの哀愁をより深く引き出すものとなっていた。

一方、もう1作の《詩人の恋》については、アンサンブルにおける「対話」の醍醐味を伝えてくれるものではあったが、そのアレンジについては当初は疑問に思った。というのも、構成らしい構成も、演出らしい演出も、そこには感じられなかったのである。

つまり、全16曲からなるこの歌曲集を3曲ごとに、最初はテクストの部分を朗読し、その後、歌唱パートをヴィオラに置き換えて演奏する(第13曲、14曲は2曲まとめて、第15、16曲はそれぞれ1曲ずつ)。問題は、それぞれの朗読が終わった後に奏者は立ち上がる(時にはチューニングも入る)ため、その間には若干の隙間ができてしまうこと。つまり、一聴すると、朗読と音楽の繋がりはその時点で断たれてしまっているのだ。これでは、単に朗読と音楽を並べただけであり、つまりはハイネの詩とシューマンの音楽が別個のものとなってしまうのではないか。

けれども音楽が進むにつれ、朗読と音楽が互いに呼応していることに気づく。舞台俳優の坂口修一による朗読は、抑揚の振り幅を抑え気味にする代わりに、声色の変化や言葉の強弱、発語のスピードによって詩の内面を表現する。歌唱パートをヴィオラで奏した大山は、坂口の語り口をそのままなぞったり、あるいは弦楽器ならではの音の濃淡や伸縮を生かして応答する。その逆もある。坂口のトーンは、直前に鳴っていたヴィオラとピアノの表情を受けて徐々に変化していく。とりわけ、酒井有彩によるピアノの余韻が坂口の声に移り、次第に陰影を含んだ語りへと変わっていくあたり。シューマンが音に託した若者の胸の内が切々と伝わってきたのである。

こうした見事な「アンサンブル」の裏には、事前の打ち合わせや読み込みがある程度あったに違いない。直後はそう予想したが、休憩後の「観客との対話」の時間でそれが全く外れているのが明らかとなった。事前の打ち合わせなどはなく、当日のリハーサルで初めてお互いの様子を知ったとのこと。その後、本番までに各自で調整をした程度とのこと。仕込みのようなものはほとんどなかったようだ。つまり、私たちはすでに出来上がった舞台を見たのではなく、一つの舞台が出来上がっていく過程を見たというわけだ。まさに、奏者同士の音楽上の「対話」と、それによって形作られていく音楽の様子をダイレクトに体験したと言える。もちろん、彼らがそこまで意図していたのかどうかはわからない。が、楽譜という「完成予想図」のある演奏に慣れてしまった私にとっては、音楽における「対話」の意味を改めて意識させられることになった。

一方、「異なる表現分野との対話」という点では、演奏の場にもこだわりがあるようだ。今回は、高台寺の境内に2年前に建てられた利生堂が会場。八角形のこぢんまりとしたお堂の内部は、650年前に描かれたという作者不詳の「涅槃図」に覆われている。デジタル・コピー画像とは言え、開演前からその画が放つ空気が独特の空間を作り出していた。

だが不思議なことに、音楽が鳴り始めると通常にはないような親密さが感じられた。奏者と観客の位置が近いこともあっただろう。また、木製でかつ八角形という構造のためか、音ばかりか奏者の呼吸までがよく伝わり、会場全体を丸く柔らかく包み込むのである。高い集中力と繊細な身体感覚を見せた酒井の《子供の情景》では、音の軌跡と息の流れが一つになって「涅槃図」を一巡りする。その空気の流れを意識した瞬間、会場全体が別の世界へと運ばれていったかのように感じられた。

 (2018/10/15)