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好きな作曲家・演奏家との出会い|伊福部昭先生との出会い、そして|齋藤俊夫

伊福部昭先生との出会い、そして

text & photos by 齋藤俊夫(Toshio Saito)

高校生の時分、兄の運転する車のFMから恐るべきエネルギーに満ちた音楽が流れてきて、その作品の作曲家が「伊福部昭」であると知った。その後、宇都宮の新星堂でCD「伊福部昭の芸術2」(キングレコード)を購入、帰宅して「シンフォニア・タプカーラ」を早速聴いた。
冒頭の雄渾なレントの時点で、私は呵々大笑した。「そうか、これだったのか」、と。自分がこれまで聴き、演奏し、学んできた音楽、いや、音楽のみならず美術、文学、哲学、歴史、自分の中にあった全てのもの、自らの内にありながら自分では気づかなかった全てのものに対する答え、それを「そうか、これだったのか」と悟った瞬間であった。

サンスクリット語で「音」を表す
「ナーダ」 もしくは「ナダ」の文字

大学浪人時代、食費を削って栃木にはなかった中古CD屋に毎日通い、手当たり次第にCDを買いつつ、伊福部昭のCDも手の届く限り揃えた。そして東工大工学部入学後、色々あって(何があったのかを語ると1編の古臭い私小説になってしまうので詳しくは述べない)精神的危機に陥り、やけっぱちというかなんというか、自転車を駆って存命中の伊福部先生宅に押しかけ、サインを頂戴したのであった。今思うとなんたる迷惑で恥知らずなことかと顔から火が出る思いであるが、先生は見ず知らずの私を優しく書斎に迎え入れ、実に達筆なサインをくださったのである。
その後慶應義塾大学文学部に入学したのも、ただひたすらに「伊福部先生の音楽を研究したい」との一念からであった。といっても「音楽学」なるものが何なのかわからず、ゼミの先輩たちからは「伊福部昭では論文は書けない」と嘲笑され、不安と悔しさにまみれた学生生活が続いた。
2006年2月、伊福部昭先生死去の報を受け、畏友に電話して号泣した。まだ自分は何も書けていない、まだ恩返しをしていない、と。
「伊福部先生についての世界初の修士論文を書く」との志を胸に、慶應義塾大学大学院文学研究科に進学。しかしそこでもまた壁にぶつかり(この辺りも詳しく述べることはできない)、これ以上学問の道を進むことは諦めさせられてしまった。だが、それでも、「伊福部昭研究による修士論文」だけは書かねばならない、との決意だけは揺るがなかった。たとえどんなに不格好な論文であっても、自分がここまで来た証を立て、伊福部先生への恩、自分がここまで生きて来られた恩を返さねばならないと誓ったのだから。
迷走に次ぐ迷走、挫折に次ぐ挫折、周囲からのほぼ諦めの視線を感じつつ、確かに不格好なれども2008年度修士論文『伊福部昭アレグロ楽章終結部の書法』は完成した。
その論文の冒頭にはこう記されている。「この論文を故伊福部昭先生に捧げる。伊福部先生こそ著者の青春であった」と。

(2018/10/15)