サントリーホール サマー・フェスティバル2018 テーマ作曲家〈イェルク・ヴィトマン〉室内楽|齋藤俊夫
サントリーホール サマー・フェスティバル2018 テーマ作曲家〈イェルク・ヴィトマン〉室内楽
2018年8月25日 サントリーホールブルーローズ
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
写真提供:サントリーホール
<曲目・演奏>
(全てイェルク・ヴィトマン作曲)
『ミューズの涙』クラリネット、ヴァイオリン、とピアノのための(1993/96)
クラリネット:イェルク・ヴィトマン、ヴァイオリン:カロリン・ヴィトマン、
ピアノ:キハラ良尚
『エア』ホルン独奏のための(2005)
ホルン:福川伸陽
『3つの影の踊り』クラリネットのための(2013)
クラリネット:イェルク・ヴィトマン
『狩の四重奏曲』弦楽四重奏曲第3番(2003)
ヴァイオリン:辺見康孝、亀井庸州、ヴィオラ:安田貴裕、チェロ:多井智紀
『エチュード 第1巻(第1~3曲)』ヴァイオリン独奏のための(1995,2001,2002)
ヴァイオリン:カロリン・ヴィトマン
『五重奏曲』オーボエ、A管クラリネット、F管ホルン、ファゴットとピアノのための(2006)
オーボエ:吉井瑞穂、クラリネット:イェルク・ヴィトマン、ホルン:福川伸陽、
ファゴット:小山莉絵、ピアノ:キハラ良尚
サントリーホール国際作曲委嘱シリーズNo.41は、クラリネット奏者として抜群の実力を持ち、作曲家、指揮者としても活躍しているイェルク・ヴィトマンを招待した。
全曲ヴィトマン作曲の室内楽を並べた本演奏会は、彼の演奏者としての技量と経験が作曲にも反映していること、そして彼の並々ならぬ才気を再確認するまたとない機会となった。
クラリネット、ヴァイオリン、ピアノのための『ミューズの涙』、全体の主動機となる下行音型の反復を、フォルテからピアニシモまでなだらかな連続曲線でつなげてヴィトマンが吹き始めた時点で心を持っていかれた。なんと豊かな音世界であろうかと。
クラリネットとヴァイオリンが呼び交わし、クラリネットが聴こえる限界までの超弱音のロングトーンから(この音量でも音がしっかりと聴こえるのがまた凄い)、ピアノがゆっくりと和音の拍打ちで入り、クラリネットとヴァイオリンがぐっと暗く悲しい曲想を奏でる。と思ったらチャルダッシュの前半のような音楽から、テンションの高い楽想群が畳み掛けるように現れてあっと言う間に去っていく(ここは多様式主義か?)。また暗く悲しい曲想に帰り、さらにはかなげに、消え入るように終わる。
クラリネット、ヴァイオリン、ピアノの音の力を信じ、それを出し切った正攻法の作品・演奏と聴こえたが、すると多様式主義らしき部分は果たして必要だったのかとも思えてくる。
ホルン独奏のための『エア』、これもまた福川伸陽の演奏にたちまち心を持っていかれた。はろばろと、おおらかに、ホルンの音に乗って大空を飛ぶような感覚。と思えば、ゲシュトップ(ベルの中に右手を入れて音色などを変化させる技法)で音の遠近感をつけたり、つんざくような鋭い音が切りつけたりしてくる。背後に蓋を開けたピアノを置き、弦をホルンの音と共鳴させていたのも面白い。技巧的にはいわゆる特殊奏法、微分音なども多用されており、荒ぶるところもありながら、全曲を通じて自由な感覚が失われない。最初から最後までうっとりと聴き惚れてしまった。
クラリネット独奏のための『3つの影の踊り』、筆者はヴィトマン自身による本作品の生演奏を聴くのは2回目なのだが(下記リンク参照)、やはりヴィトマンの技巧を技巧とすら感じさせないほど自然に聴かせる超絶技巧は凄いの一言である。特殊奏法満載だが、踊り、おどけ、走り抜ける、ヴィトマン節とでも言える楽想に満ちた第1曲、虚ろなトレモロと重音奏法のロングトーンで月光に映る人影のような儚さを漂わせる第2曲、楽器のキーをカチャカチャとリズムに乗って鳴らし、あるいは「プッピッポッペッピッ」と吹き、「ギュイイイイ」と潰れた音の後に「ブー」と低音をならしたりして、最後は「アー!」と絶叫して、「オチ」の音型で終わる。クラリネットとはこんなに楽しい楽器だったのか。
弦楽四重奏曲第3番『狩の四重奏曲』、全員で弓を振って「ヘイ!」と掛け声をあげて、健康的な「狩の主題」(どこかからの引用らしいが、その原曲はわからなかった)を4人で楽しく弾き始める。だが、次第にそこに色々なモノが混ざってくる。主題が変形され、弓で弾く弦の位置をずらし、楽音に噪音が混じり、アルコだったはずの主題がピチカートになり、さらにどんどん断片化していき、「ワー!」「ア!」と叫び、「ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、ハイ」と快哉をあげ、そして遂にはしわがれた噪音だけになり、ヴァイオリン2人とヴィオラが弓を振るってチェロをとっちめて、チェロが「グワ~!」と断末魔の声をあげて死ぬ演技で終わる。
筆者はこれを冗談音楽と思い、会場も笑いで満ちていたのだが、作曲者のプログラム・ノートでは「徹底して技巧的に過剰な語り口が、この作品が予期せず陥るだろう深刻さというものを、かろうじて覆い隠している」とある。どう聴いても到底深刻な作品とは思えなかったが・・・・・・。
ヴァイオリン独奏のための『エチュード』、最高音域の最弱音が支配する第1曲は時が止まったかのような静けさと緊張感に満ちていた。音符の数も多く、特殊奏法も多用し、時には激情的なダウンボウも入るのに、全ては静寂に飲み込まれていく。
第2曲は「3声のコラール」(作曲者プログラム・ノートより)の1声部を奏者の「アー」という声が担当し、時に悲痛に、時にグリッサンドを多用して激しく、時に堂々と旋律を奏し、ヴィルトゥオージティの極地を見せる。ヴィトマン節も聴こえてきた。
第3曲は超高速で上行と下行を繰り返し、グリッサンドでも超高速の上行下行を反復し、そして最後はピチカートの弾く位置を指板の上方にあげていき、同時にディミヌエンドして終曲。
超絶技巧を要する難曲であり、かつ極めてシリアスで「精神的高み」とでもいうべきものが宿った作品であった。
最後を飾った『五重奏曲』は10秒から4分までの短い18個の楽章からなる作品。すごい速度でどんどん多種多様な音楽的実験が繰り広げられていく。そしてその実験で被るものがない。それこそが作曲者の言うところの「徹底して厳格な対位法的技法」(プログラム・ノートより)なのだろう。
その実験を列挙すると、同音連奏・連打で始まり、ピアノが上行音型を反復しているのに管楽器が絡んで崩壊する、全楽器が競うように大音量を轟かせる、不気味に明るく皆で踊るように潰れる、通常奏法で重く悲しく合奏する、歪んだスケルツォから口を使った特殊奏法になだれ込む、神秘的にふわふわと漂う、などなど。そして最後はロマン派風の音楽が崩れていき、ピアニストがチェレスタに移って独り寂しげに演奏して終わる。
なんたる才人か、と思ったのと同時に、なんとサービス精神旺盛な、とも思った。例えば松平頼暁のパフォーマンス作品は色々な技芸を連ねても冷たく人を突き放しているのだが、ヴィトマンの場合は人を呼び込んで一緒に遊ぼうとする人懐っこさがある。そこにヴィトマンの長所も短所もあるのであろう。
関連評:
イェルク・ヴィトマン―無伴奏
サントリーホールサマーフェスティバル2018 テーマ作曲家〈イェルク・ヴィトマン〉管弦楽
(2018/9/15)