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東京交響楽団 川崎定期演奏会第66回|大河内文恵

東京交響楽団 川崎定期演奏会第66回

2018年7月15日 ミューザ川崎シンフォニーホール
Reviewed by 大河内文恵(Fumie Okouchi)
Photos by 林喜代種( Kiyotane Hayashi)撮影:7/14@サントリーホール

<演奏>
東京交響楽団
ジョナサン・ノット(指揮)
マクシミリアン・シュミット(テノール)
サーシャ・クック(メゾ・ソプラノ)
クリストファー・モルトマン(バリトン)
東響コーラス(合唱)
冨平恭平(合唱指揮)
グレブ・ニキティン(コンサート・マスター)

<曲目>
エルガー:オラトリオ《ゲロンティアスの夢》作品38

 

イギリス生まれの指揮者ジョナサン・ノットが「地元」の作曲家エルガーのオラトリオを振る2日連続公演のうち、2日目を聴いた。エルガーは『威風堂々』や『愛の挨拶』など器楽曲ではお馴染みの作曲家であるが、声楽曲が日本で演奏されるのは珍しい。東京交響楽団では2005年に取り上げて以来13年ぶり2度目の演奏となるという(ebravo,後藤氏の記事による)。

始まった途端、頭の中に2つの疑問符浮かんだ。よい意味とよくない意味で。よいほうは、東響ってこんなに巧いオケだったっけ?というものだ。冒頭のプレリュードはクラリネット、ファゴット、ヴィオラのみでピアニシモで始まる。そして、幻想的な雰囲気を保ったまま、中~低音の楽器が増えていく。この部分はCDなどで聴くとただ単に楽器数が増えていくだけのように聴こえるのだが、東響の演奏では、オーケストラのあちこちでさざ波が起きては消え、起きては消えるさまが迫ってくる。譬えが逆のようで申し訳ないが、コンピュータを使わないプロジェクションマッピングを見ているような、言い知れぬ感動に包まれた。こういう演奏が聴けるのなら、この前奏曲だけ取り出して、オーケストラの演奏会のプログラムに加えてもよいのではないかと思った。

もう一方の疑問符はあとで述べるとして、本篇へ入ろう。物語は死の床にあるゲロンティアスがイエス様とマリア様に呼びかけるところから始まる。自分にはもう祈る力もないと嘆くと、合唱が「キリエ・エレイソン(主よあわれみたまえ)」と入ってくる。この部分のみ歌詞が片仮名読みのように聴こえてしまったのが残念ではあったが、とても美しく幻想的な雰囲気で、このオラトリオ全体の方向性がこの合唱で示されたように思えた。

ゲロンティアス役のテノール、シュミットはドイツ出身でドイツものを得意としているようで、英語の発音が聞き取りにくいきらいはあるが、ひたすら祈る場面や自分を奮い立たせる場面など、死を目前にした人間の心の機微を見事に表現していた。とくに「サンクトゥス」から始まる長いソロ部分は、ときに劇的なオーケストラ部分とともに前半の山場を形成していた。

合唱部分をはさんで、ゲロンティアスが「終わりの時が来ています」と歌い始める。オーケストラパートが最初のゲンロンティアスのソロの部分の音楽を回顧し、その時が来たことを暗示すると、司祭がラテン語で「旅立ちなさい」と告げる。司祭役のバリトン、モルトマンのこれ以上ないほどこの役にぴったりの深く響く声によって、死を迎えることは悲しみでも敗北でもなく、救いであり栄光なのだということが、感覚的にすっと理解できたことに我ながら驚いた。この司祭と絡む部分の合唱は、今までの祈りを捧げる立場から栄光を讃える立場となったことがよくわかり、前半最後の山場をつくりあげるのに貢献していた。そして第1部の演奏が終わり、指揮者がタクトをおろすまでの長い静寂。これまでの興奮と祈りと死を受け止めるためにこれだけの静寂が必要なのだと納得できる長さとでもいおうか。

後半はヴィオラの天上の音楽で始まる。最初に出てくるのは天使役のメゾソプラノ、クックである。天使というと普通は高いソプラノの声を想像するが、エルガーはメゾ・ソプラノの深い声を要求した。彼女の豊かに響く声を聴きながら、この天使は「母」なのだと気づいた。天使と(ゲロンティアスの)魂との対話はやがて、悪魔たちの合唱に飲み込まれていく。この合唱部分は、これまで天上的な音楽と対照的に非常に人間的な音楽で、ある意味オラトリオというよりオペラ的な音楽である。そして魂が天上の恐ろしさに気づいたとき、合唱は天上の合唱に変わる。この切り替えは見事であった。

天使が入口を告げる直前のオーケストラ部分の素晴らしさ、天上の合唱に続き、またしてもモルトマン(苦悩の天使)に持っていかれた。間違いなく本日の殊勲賞だろう。魂が歌う最後の部分、「私を連れて行ってください」の前のオーケストラ部分の上行しつつ音量をあげて、天国への階段を昇っていることを描写するところなど、独唱者や合唱の単なる伴奏ではなく、オーケストラも含めての構成の巧みさに舌を巻く。そして、最後の音の消しかたの巧さ。一瞬自分がどこにいるのかわからなくなる。

さて最後にもう一つの疑問符について。この公演には字幕がなかった。客席の明かりがすべては落とされず、対訳を観ながら聴けるように配慮されており、そうやって聴いている人も相当数にいたが、やはり手元と舞台とを行き来しながら見ると、物語の世界に没入することが難しく、せっかくの雰囲気が心から味わえなかったのではないかと思われる。

合唱の演奏会などでは字幕がつかないこともあるが、やはり最初から最後までストーリーになっている作品は、字幕で逐一追えたほうが理解が深まるのではないだろうか。今回は歌詞の大半が英語ということでなくてもわかるという判断だったのかもしれないが、少なくともミューザ川崎は響きがよく包み込まれるような音響が魅力だが、歌詞が聞き取りにくいホールでもある。

この作品は独唱者が3人とオラトリオにしては少な目で合唱の出番が多い。合唱団のレパートリーとして今後取り上げるところが出てきてもおかしくない作品だと思う。次に演奏する際にはぜひ字幕を検討して欲しいところである。

関連評:東京交響楽団 第662回定期演奏会|藤原聡

(2018/8/15)