ディオティマ弦楽四重奏団 バルトーク弦楽四重奏曲全曲演奏会|齋藤俊夫
2018年6月12日 横浜みなとみらい小ホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 藤本史昭/写真提供:横浜みなとみらいホール
<演奏>
ディオティマ弦楽四重奏団
第1ヴァイオリン:ユン・ペン・ヂャオ
第2ヴァイオリン:コンスタンス・ロンザッティ
ヴィオラ:フランク・シュヴァリエ
チェロ:ピエール・モルレ
<曲目>
(全てバルトーク・ベラ作曲)
弦楽四重奏曲第1番作品7 Sz40(1908-09)
弦楽四重奏曲第2番作品17 Sz67(1917)
弦楽四重奏曲第3番 Sz85(1927)
弦楽四重奏曲第4番 Sz91(1928)
弦楽四重奏曲第5番 Sz102(1934)
弦楽四重奏曲第6番 Sz114(1939)
バルトークの弦楽四重奏曲についてなら「大体わかっている」つもりでいた筆者であるが、今回のディオティマ弦楽四重奏団の演奏によって「全くわかってなかった」ことを自覚させられた。まるで初めて聴く作品のような、されどバルトークでしかありえない音楽と出会い、彼の音楽史を辿ることができたのである。
まず第1番、半音階的主題を、ゆっくりと、なめらかな曲線で提示し、さらにねっとりと楽器が絡み合いつつ上昇していくその官能的な音楽に驚かされる。バルトークがこんなに晩期ロマン派的な爛熟した音楽を書いていたのか?ディオティマの個性、しかも緻密な読譜に裏打ちされたそれが早くも現れたのである。鬱勃とした情念をみなぎらせ、それがカタルシスに至らない。心がざわつく。息継ぎなしで水の中を泳ぐような圧迫感が最後まで継続し、聴き終えてやっと大きく深呼吸することができた。
第2番第1楽章モデラート、靄の中をさまようがごとき不安を掻き立てられる冒頭から、次第に音がせり上がり押し寄せてきて、その波に溺れそうになる。民族舞踏的なアレグロの第2楽章はシャープだが実にエネルギーに満ちている。ディオティマの演奏は音の高低や音量の大小、音の太さ・細さに関わらず、そこに濁りというものが全く無い。第3楽章レントはその澄み切った音による静謐で孤独な哀歌。弱音の表現力に感嘆。なんと痛切な。しかし、この第2番は晩期ロマン派的な第1番からは遠く隔たった音楽であった。
単一楽章の第3番は第1部の玄妙なモデラートの出だしから4人が絡み合うが、第1番のようなロマン的官能性はなく、もっと理知的で、極めて現代的な作曲=構築をしているのがくっきりと聴こえる。第2部の民謡風主題に基づく部分が今回の演奏会の中で一番「わかりやすいバルトーク節」であったかもしれない。その後第1部の主題が再現されるとまた現代音楽の世界に。そしてコーダで第2部の主題による高速バルトーク節からスパッと終曲。バルトークがこの作品で現代音楽の扉を開いたことが判明した。ディオティマはバルトークの演奏でままある、ナタでぶった切るような力技の演奏は決してせず、音楽を精妙に腑分けした上でバルトーク節を奏でているのが聴いていてわかる。
第4番まで来ると、現代音楽の扉からさらに奥に作曲者が進んだことは一目(耳?)瞭然。恐るべき複雑な対位法による第1楽章、グリッサンドやハーモニクスを多用し、虫の大群の羽音のような不気味な響きの第2楽章、ラウタヴァーラを先取りしたような和音を背景にソロが雄渾に、あるいは鳥のように歌う第3楽章、全員がピチカートで軽やかに舞い、必殺のバルトーク・ピチカートで終わる第4楽章、変拍子による激烈かつスリリングな民族舞踏の第5楽章、もはやどこにも第1番のようなロマン派の匂いはなく、前衛的な響きが全曲を支配していた。
しかし、第5番は、第1~4番の晩期ロマン派から現代音楽へ、という直線的なバルトーク史観では捉えられない作品のように聴こえた。第1番を形作っていた曲線美は消え、直線的な音が支配し、第3楽章の民族的というには奇怪すぎ、前衛的すぎる音楽、第5楽章の激烈だが決して粗にならないバルトーク節など、作曲者とディオティマの類まれなる感性を感じさせられたものの、筆者には、この作品は先の第4番より「後退」している、言うなれば「無難に」作曲されているように思えた。それは筆者がこの長い長い演奏会に疲れてきたからだけであろうか?
最後の第6番は、これまでの作品のモダニズムへの指向は姿を消し、ベートーヴェン的・古典主義的な音楽(つまり第1番の様式よりもさらに昔のそれ)へと回帰したバルトークの独白。ディオティマの演奏法もそれまでの表出力の強いそれから、作品の骨格を正確かつ端正に描き出すアプローチへと変わった。第3楽章ブルレッタ(茶番)の歪みすら整然としている。各楽章の冒頭のメスト(悲嘆)主題のなんたる悲しく美しいことか。そして最後の第4楽章「メスト」に至って、古典美と現代的悲劇の融合が成就した。極めて遅いメスト主題が対位法的に展開されるこの楽章、技法的には全く「現代的」ではないが、ファシズムという「時代」を刻印していることにおいて「現代的」であったのだ。フォルテシモは悲しみの叫びか、嘆きの叫びか、それとも怒りの叫びか。チェロのピチカートが消えゆく終曲まで、バルトークと無言の対面、音楽を通じての対面をしているような感覚を覚えた。
休憩を2回挟んで、午後6時半開演、10時10分終演という長大な演奏会であった。開演時には会場に8~9割の人の入りと見えたが、終演時には6割程度まで減っていたのも仕方あるまい。だが、ディオティマの大胆かつ作品・作曲者の音楽的意図を完璧に再現したバルトーク全曲を聴けたのは生涯の宝となろう。このような企画を実現させた主催者にも敬意を払いたい。
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