N響 MUSIC TOMORROW 2018|齋藤俊夫

N響 MUSIC TOMORROW 2018

2018年6月26日 東京オペラシティコンサートホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 鈴木信之/写真提供:公益財団法人NHK交響楽団

<演奏>
指揮:ステファン・アズベリー
オーボエ:フランソワ・ルルー(*)
NHK交響楽団

<曲目>
鈴木純明:『リューベックのためのインヴェンションIII「夏」』(2018、NHK交響楽団委嘱作品・世界初演)
坂田直樹:『組み合わされた風景』(2016、第66回尾高賞受賞作品)
ジェームズ・マクミラン:『オーボエ協奏曲』(2010、日本初演)(*)
(アンコール)シルヴェストリーニ:無伴奏オーボエのための6つの練習曲から第3曲『キャピュシーヌ大通り』(*)
コリン・マシューズ:『ターニング・ポイント』(2006、日本初演)

 

1988年にスタートしたMUSIC TOMORROW、既に大家となった作曲家を取り上げることが多い中、今回は40代の鈴木純明、30代の坂田直樹が取り上げられると知り、俄然期待は高まった。だが、その注目の日本人作曲家の2作品の演奏は指揮者ステファン・アズベリーの読譜能力に疑問を抱かずにはいられない出来であった。

ドイツのリューベックでの印象をシリーズとして音楽化した鈴木作品は、ブクステフーデやバッハの借用を含め、大量の断片、その多くはフレーズとして認識可能な大きさのそれを集積したものであった。バロック的な断片、現代音楽的な断片、また明るく朗らかなサーカス的・見世物小屋的・ディズニーランド的な愉快な断片などがオーケストラ全体で万華鏡のようにきらめく音楽・・・になるはずだったと筆者は捉えたが、実際に聴こえてきた演奏はさにあらず、団子状になった音塊が会場に降り積もってくるばかりであった。各パートごと、断片ごと、さらにオーケストラ全体での音楽的句読点が見つからず、瞬間的にも、通時的にも構造が全くつかめない。どこを聴けば良いのかわからなかった。悪い意味で「楽譜通り」でしかない演奏、譜面から音楽を想像・創造できていない演奏であったと正直に記すしかない。

坂田直樹の今回の尾高賞受賞作品は筆者もかつて武満徹作曲賞本選会で初演を聴いたことがあるのだが(その時の指揮はカチュン・ウォン、演奏は東京フィルハーモニー交響楽団、坂田は第1位を受賞)、今回はこちらも悪い意味で「楽譜通り」で初演時とは別の作品のようであった。鈴木作品と同じく、作品を構成している大量の断片(その多くは噪音である)の構造化に失敗しており、今度はそれぞれの音がぶつ切りのまま繋がらず、持続した音楽となって聴こえてこない。一音一音の残響を含めた響きがどのような音楽的意味を持ち、それらをどのように組み合わせて、どのような音楽とするべきなのか、今回の指揮者にはわからなかったのだろう。「こんな作品じゃない」といっそ悔しい思いすら味わってしまった。

しかし後半のイギリスの現代作品2つは見違えるような演奏であった。実際、前半2曲では指揮者は硬直してただ拍をとっていただけのように見えたのだが、後半では全身を大きく動かして指揮をしていた。

マクミランのオーボエ協奏曲、あまり「現代的」ではない、それゆえに筆者との相性はあまり良くない作品だと思っていたが、今回の演奏は、この作品はこのように演奏すれば映えるのだ、と教えてくれた。

オーボエ・ソロのフランソワ・ルルーの超絶技巧、技巧を技巧と思わせないほどの軽やかなそれはまず第一に記すべきであろう。そして、ルルーを前面に出して、オーケストラをサポートに徹させた采配も見事である。何より今回のマクミラン解釈が優れていたのは、彼の音楽の「現代的」な意匠は飾りであって本筋ではないと見極めていたことである。これはシリアスな現代音楽ではない、あくまで娯楽作品だ、と割り切って映画音楽的な(筆者のような人間には恥ずかしくなるような)直截的な旋律などもおおらかに歌い上げる。とにかく難しいことを考えずにルルーの絶妙のオーボエに聴き惚れ、音楽を楽しむことが出来た。アンコールもまた絶品。会場からは大きな拍手が巻き起こった。

最後のマシューズ作品、冒頭からオーケストラが実によく響く。弦楽と金管のフォルテシモで始まり、ティンパニーとトムトムによる拍打ちが強迫的にのしかかってくる第1部、夜の墓地をさまようようなぞわぞわとした雰囲気の弱音から金管の咆哮が戦争の気配すら感じさせる第2部、弦楽器が旋律とも言えないほどの極めてゆっくりとした楽想を奏でる中、金属打楽器やティンパニーが突き刺さり、やがて全て消えゆく第3部の、 それぞれの性格の弾き分けも見事。作品の物語的構造を最後まで揺るぎなく構築した演奏であった。

後半でかくも明晰な演奏を聴かせてくれたのに、何故前半は(少なくとも筆者には)音楽として成り立っていないようなそれだったのか、疑問でならない。現代音楽とはどうあるべきかという思想的問題、求める音楽性の違い、等々、色々と原因を考えつつ会場を後にした。

(2018/7/15)