ヤクブ・フルシャ指揮 バンベルク交響楽団|丘山万里子
横浜みなとみらいホール開館20周年特別公演
ヤクブ・フルシャ指揮 バンベルク交響楽団
2018年6月28日 横浜みなとみらいホール 大ホール
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 藤本史昭/写真提供:横浜みなとみらいホール(公益財団法人横浜市芸術文化振興財団)
<演奏>
ヤクブ・フルシャ指揮/バンベルク交響楽団
<曲目>
ドヴォルザーク:交響曲 第8番 ト長調 op.88 「イギリス」
〜〜〜〜
ドヴォルザーク:交響曲 第9番 ホ短調 op.95 「新世界より」
(アンコール)
ブラームス:ハンガリー舞曲第17番、21番
『イギリス』の序奏、ホルンと弦が朗々と歌いだした瞬間、この音、この流れ!ああ懐かしい、と陶然。まだ共産圏だったチェコスロヴァキアに初めて行った時。見渡す限り緑の麦畑を渡る風が一斉に穂波をうねらせてゆく、その光景が忽然と開けたのだ。
「風光(明媚)」というけれど、陽光と風と水は「自然の恵み」だ。その恵みをいっぱいに孕んだ音。久しく聴かない、この響き。芳醇・豊潤とはこういうことを言う。
思わずフルシャを見やり、指揮棒なしであることに気づく(私はフルシャは初めて)。
この日の幸福の全ては、ここにある、というのが私の結論。
自然界に直線はない。とはデザインの本か何かで読んだ。それを納得。
つまり、フルシャの手指(ばかりでなく身体全体)はふわふわゆらゆら、スイスイぐいんぐいん動くわけだが、絶対に直線にはならない(当たり前だ、人間も自然の一部)。つまり、音楽が曲線だけで組成(一つと全体)される。つまり、あらゆる響きと、あらゆる楽句が多種多様な曲線を描き、どんなに鋭角的な部分でも「弾み」や「ゆらぎ」を含み、絶対に打点で直線的に痛覚を刺激しない。つまり「自然」そのものなのだ。
じゃ、指揮棒は直線・人工か、といえば、私は場合によってはそうだ、とフルシャを見て、聴いて思った(ここらについては深堀りを要するので略)。
大型化する合奏の統率統制、司令強化のため、手の延長としての指揮棒が考案されたのは1780年頃、コンサートでの初使用は1812年ウィーンだとか。
だが、自分の手指を動かしてみればわかる。何か持てば、指先の感覚は確実に失せる。繊細微妙な「指」示「指」令、もしくは表現への願い、想い、愛情、などは伝わるべくもない(と言ってしまおう)。棒の先っちょから持ち手の体温は伝わらない(と言ってしまおう)。
極言(暴言)すれば、音楽に直に触れず、直に動かせず、直に受け取れないのだ。
第2楽章、弦の深々した旋律に降ってくる小鳥の囀りみたいなフルート、オーボエの掛け合いで、彼の指先は小さく羽ばたき、震える。ちゃんと、そういう音がそこから飛び立つ。ティンパニの力強い打音も「角」がなく、弦にピアニシモの靄がかかると、僅か、周囲の大気が湿る。
第3楽章のワルツ風。あんまり切なくて、涙がじわっときた。フルシャの膝のやわらかな屈伸、全身のバネがリズムを優しく揺り動かし、オケを踊らせ、私たちを踊らせる。円弧を描く雲上のステップ。その優美な遠心力にうっとり。
第4楽章のトランペットのファンファーレ、天に向け高々と両手を広げると煌々たる陽が射し、輝かしさが吹き上がる。弦の低音の底力。各変奏のアップダウンが素敵に楽しい。管弦打のバランス、緩急、響きの配色(ちょっと雑味の混じった変奏部分など実にチャーミング)、まさに「手の内」の音楽。いや、私たちもひっくるめホールごと動いて鳴っている感じ。最後の一撃にともに座席から腰を浮かしたのは私だけではあるまい。
というわけで後半『新世界』はほとんどオケの一員モードに。第1楽章、管を追駆する弦の付点滑走のなんたる快感。聴き慣れたこの音楽、フルシャにかかると生まれたての音符一つ一つに羽が生え自在に飛び回り、五線が搏動して波打つように現前するのだ。かのラルゴ、モルダウの夕暮れ、朱でなく青空がそのままうっすら白光に、そして闇へと溶けてゆく、その色のうつろいそのままで、再び涙じわっ。終章、大鷲が翼を広げるような雄渾オケからついに至る最終音が天上に吸い込まれ、フルシャの指先、宙に止まる。一瞬の静寂。
前列にずらり並んだ女子学生と思しき8人(平日マチネ!)感極まり、手を高々あげ打ち鳴らす。フルシャは胸の前で軽く両手を握り、オケに向かって小さく開く。「僕たち、素晴らしかったね、ありがとう!」と言うように。
オケ中央のチェロ奏者が「あなた大好き、大好き!」と言わんばかり、ずっとフルシャを凝視め夢中に弾いていた、その彼に近寄っての抱擁にこちらも満面の笑みになる。
これが彼らの「音楽」、なのだ。
ここ数年、私は外来オケをあまり聴かなくなっており(楽しめない)、聴いても「なんだか」と考え込むばかり。飛びつくようなブラボーに憮然たる思いを抱いていたが、この日は久々湧きあがるような喜びに満たされた(オケ、多少の躓きや不揃いはありましたが、So What?)。
初めてのチェコ訪問で聴いたのはノイマン/チェコ・フィルのマーラー第1番。とびきりのその演奏と直結するものがここにはあった。それは何であるか。
懐古趣味?現代の高性能演奏を日々浴びるうち、私たち、「小手先」の煽情的興奮と図式的感動を刷り込まれてはいないか。「身口意」の総体たる「肉体」を失ってはいないか。
指揮棒、持つ、持たぬ、が語りかけるもの。
自国物とかのレベルでなく、若いフルシャの体躯直結自然音楽は、そういう問いをも含む。
彼が今後、世界でどんなポストを得ようと、得まいとそんなことはどうでもいいことだ。
関連評:バンベルク交響楽団|平岡拓也
(2018/7/15)