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バンベルク交響楽団|平岡拓也

バンベルク交響楽団

2018年6月29日 サントリーホール 大ホール
Reviewed by 平岡拓也(Takuya Hiraoka)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
メゾ・ソプラノ:ステファニー・イラーニ
女声合唱:東京混声合唱団
児童合唱:NHK東京児童合唱団
管弦楽:バンベルク交響楽団
指揮:ヤクブ・フルシャ

<曲目>
マーラー:交響曲第3番 ニ短調

 

ヤクブ・フルシャの凱旋―そうほくそ笑んだ音楽ファンは少なくないのではなかろうか。
彼と都響で様々な作品を聴く機会に恵まれた筆者とて、そうである。マルティヌー全交響曲の演奏を成し遂げ、『アルプス交響曲』『春の祭典』といった大作をここ東京で初めて経験していったフルシャは今や、押しも押されもせぬマエストロとなった。2016年から首席指揮者の任にあるバンベルク交響楽団を率いての公演を聴く。

世界という名の長篇小説を一章ずつ読み進めるようなグスタフ・マーラーの交響曲群の中でも、最長の演奏時間を有するのが『交響曲第3番』である。演奏史をたどれば幾人もの名指揮者たちが多様な演奏を遺しているわけだが―この大曲にフルシャはどう挑むのか、という興味とともに自席に座った。
こちらの気負いをよそに、冒頭のホルン8本の斉奏はしなやかに、しかし重心低く開始された。タクトを持たず振り始めたフルシャは気合十分だが威圧感はない。オケの楽員をコントロールしようというタイプの指揮者では元々ないが、自分のもとへ全員の滑らかに意識が集中するのを待っているようだ―ある意味、怖い。全体を静かに見つめているわけだから。結果として、楽曲全体の流れが非常に丁寧になる。やや悠然とした歩みになるのも、この丁寧さに付随する事象だろう。

基本的に、フルシャの丁寧な構築には好感が持てるのだ。特に、第6楽章のコーダは素晴らしかった。金管が天啓のような調べを吹き、楽曲の構成要素がホール一杯に満ち充ちて堂々の大団円へ向かうわけだが―この箇所を、フルシャは「かくあるべし!」というどっしりとした歩みで慌てずに進めた。この落ち着いた導きには、年齢以上に熟した音楽性を感じるのである。
しかし、だ。慌てず騒がずじっくりと進めようとするあまり、楽曲が本来有している推進力、あるいはオーケストラが生理として内包しているテンポ感までも削いでしまう場面がなかったとはいえない。第1楽章では、練習番号43から始まる行進曲を導くチェロとコントラバスに一瞬鋭くアクセントを施してすぐpに戻す等、細部の縁取りも比較的行われていたので冗長にはならなかった。続く第2楽章、第3楽章では木管群の自発的な歌が愉しげに舞っていた。しかし第4楽章はどうだ。独唱を導く冒頭の低弦(1楽章とも共通する)は意図的に遅く設定されていた。スコアの指示は”Sehr langsam. Misterioso. Durchaus ppp.”であるからそれ自体は問題ではないが、独唱のイラーニの歌が明らかにぎこちない。音楽の呼吸と歌手としての生理的な呼吸に齟齬が生じ、結果的に言葉の語尾を不明瞭にぼかしてなんとか体裁を整えているような――母語話者にも拘わらずドイツ語が時折はっきりと聴こえてこなかったのは、そのためではないかと推察する。

きっと、フルシャとバンベルク響の関係は良好なのであろう。でなければ、この大曲において遅いテンポを最後まで採るという胆力の要る試みを、オケ側が受け入れないだろうから。その信頼関係を前提にして、指揮者とオケの間の折衝が繰り広げられた100分間ではなかったか。フルシャ側のリードにオケが雄弁に応じた瞬間は多い。音楽の弛緩は、そうでない箇所で起きていた―先述の第4楽章、第6楽章中盤等々。きっとこの作品を振り続ける中で、フルシャは更なる説得力を蓄えてゆくのだと思う。それが彼の円熟となり、音楽の味わいを増すことだろう。
なおオーケストラは全体的にやや集中力を欠いたのか、一部金管のアタックに荒さがあったのは否めない。ツアー疲れか、たった一回だけの大曲への不慣れか。東京混声合唱団、NHK東京児童合唱団は見事な歌を聴かせてくれたが―それだけに第6楽章開始後、合唱がかなり長い間(ホルン群がトゥッティに加わり音量を増して漸く着席)立たせられていたのは不憫であった。一観客として気になってしまうし、やや落ち着きを失う団員も見受けられた。些細なようだが、こういった点も含めての「演奏会」の采配ではないかと思う。

関連評:ヤクブ・フルシャ指揮 バンベルク交響楽団|丘山万里子

(2018/7/15)