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カデンツァ|エルサレム、そして『Imagine』|丘山万里子

エルサレム、そして 『Imagine』

text & photos by 丘山万里子(Mariko Okayama)

5月14日、エルサレムに米大使館移転を受け、反発するパレスチナ人の抗議デモへイスラエル軍が銃撃、50人以上が死亡した。わかりきったことだ・・・ここ数日もガザでの応酬・報復の激化、死者多数の報道が続く。

ずいぶん前のことだが。《東京の夏》(2005)でイスラエルの歌声を聴き、イスラエルへ行こう、と思った。サマリア声楽アンサンブルは、三半規管がおかしくなるような旋回歌唱と同時に、指揮者ツェデカの誇り高さが強烈だった。古代ヘブライ語を話す古代イスラエル王国の「由緒正しい子孫」の自負は、そのあとに登場したエルサレム・アデス・シナゴーグの宗教歌手たちに対抗するかのよう。ユダヤにとってサマリアはアッシリア移民とユダヤの混血、異端。長い迫害と差別の傷跡はこんな形で疼き続けるのか、と暗然とした。
いや、初めて西欧の地でキリスト教世界(文化)をせっせと摂取した日々、神を持たない私は半ば羨望と半ば辟易のうちに、旧約(モーセ)、新約(イエス)、イスラーム(ムハンマド)の同根三つ巴を思い描かずにおれなく(白人、褐色、黒人、黄色の入り混じる街で、民族・宗教・文化の混淆、差別を肌で感じずにおれなく)、であれば、ともあれ三つ巴の象徴たるエルサレムは、いずれこの眼で確かめたい、と思い続けていたのだ。
歌声の翌年のイスラエルの旅は、宗教・民族間に流され、今も流れる血の痕を辿るようなもので、心身にぽたぽたそれが落ち続け、シミとアザだらけになった。イスラエル全土の地図に点々と灰色に散るパレスチナ自治区みたいに。

その時の旅行記から拾ってみる。
サマリア人が住むナブルスは、花咲き乱れるガリラヤ湖から南下、死海へ向かうバスの途上、車中から見た。近くに彼らの聖山ゲリジム山がある。1917年イギリスがイスラエル建国を支持したとき(バルフォア宣言)、残っていたサマリア人はわずか146人。70年代で430人ほど。《東京の夏》のステージの総勢10人、というその数の意味の重さよ。
正統と異端のはざま、民族間の争いと殺戮の間を生き抜いた小さなコミュニティで、細々と守秘され続けて来た130代にわたる古代ヘブライの歌唱。「彼らが宗教儀式で唱える祈りの声は、とても音楽的に整然としているとはいいがたく、自分の声がいく分かでも早く確実に神にとどけとばかり、われ先に叫ぶ。そのヘテロフォニーの声の交錯は、叫びとも、嘆願ともつかぬもので、そこに私たちは、最も古いユダヤの歌を聴く思いがする」(『ユダヤ音楽の歴史と現代』水野信男著/アカデミアミュージック)
窓越し、遠くゲリジムの山上の空と流れる雲に聴く。『モーセ五書』を聖典に、すでにユダヤが失った犠牲奉献の習慣を保持、「過ぎ越しの祝い」には羊のいけにえを神に捧げるという、その日、この聖山をどよもす彼らの祈祷の声の瀑布を。
ユダヤ迫害は世界史で誰もが学ぶが、彼らによるサマリア迫害をどれほどの人が知ろうか。

エルサレムの東、ケデロンの谷を眼下に、小高いオリーブ山に立ち、街の全景を眺める。城壁に囲まれた旧市街の神殿の丘には、燦然と輝くイスラームの黄金のドーム。直下は「嘆きの壁」。南西に見えるのが、シオンの丘だ。
丘の頂きには、マリア永眠教会(アルメニア正教)の円錐形の天蓋が鈍く光る。側にはイスラエル王ダビデ (在位AD1000〜961頃 ) の墓。イスラエル国旗ダビデの星に飾られたその墓の階段を上ると、イエスの最後の晩餐の部屋。簡素な石造りの広間に、オリーブの樹の小さな金のオブジェがぽつんと立つ。
トーラー(律法)を手に祈るユダヤの人々の「嘆きの壁」の頭上にそびえるドームは、ムハンマド昇天の場、メッカにつぐイスラームの聖地だ。長いもみあげを風になびかせながら、帽子をかぶった黒服の正統ユダヤ教徒たちが、国旗はためく広場を横切ってゆく。そこにときおり、コーランが響き渡る。さらには、教会の鐘の音。
ユダヤの望郷の地シオンの実際は、そのように新約・旧約聖書世界、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教が入り交じり、さらにはアルメニア人地区、ユダヤ人地区の間を、雑多な人々が行き交う錯綜した場だ。

同じ混沌・雑然を実感したのは、ゴルゴタの丘にある聖墳墓教会。
イエスが十字架を背負って歩いた「ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)」はこの教会への道。イエスの苦しみを我が身にも、という熱心な信者用に、重そうなごつい木の十字架が街角に立てかけられ、背負い手を待つ。
磔になった丘(ゴルゴタ)とされる場所の祭壇下にはガラスで覆われた石が覗き、開けられた穴に顔を寄せ、あるいは手を突っ込んで石に触れ、十字をきる人々の列が続く。「終油の石」「復活の御堂」「イエスの墓」・・・。その痕跡を、物語(信仰)を持たない私は遠巻きに眺める。
が、ここでこそ、強烈に耳目に訴えてくるものがあった。それは、堂内に鎮座する6つの宗派の祭壇と司祭たちと、そこに集う人々の姿。ローマ・カトリック、ギリシア、アルメニア、コプト、エチオピア、シリアの各宗派の、それぞれに飾られた祭壇には、それぞれの服をまとった司祭が立つ。さまざまな祈祷の声が終日流れ、人々は自分の属する場で祈りつつ、また、堂内をゆるゆるめぐる。宗教とはかかわりない観光客もまた、立ち止まり、眺め・・・その全体の、サワサワとした絶え間ない空気の動き、声の、歌の、人の、輪と流れの混然、雑然がこの教会をぼうっと包み上げる。この教会の鐘は、イスラーム教徒の2家族が鳴らすという。
寄ってはほどけ、ほどけては寄り合うゆるやかな流動・・・時空を自在に横断、重層する響きの世界。民族、宗派、文化の、入り交じり行き交う、それがこの聖墳墓教会であり、エルサレムの実体なのだ・・・。
が、数年後、教会内でのギリシアとアルメニアの乱闘のニュースを聞く。入り交じり行き交う渾然の実体、なんて実感の浅はかさ。火種はいつ、ぼっと燃え上がるかしれない。

イエス生誕の地ベツレヘムはエルサレムの南、パレスチナ自治区にある。イスラエルのバスを降り、分離壁を超える。壁の向こうとこちらは、別世界だ。厳重な柵で囲われた検問所を通ってパレスチナ地区に入ると、空気は重く沈み、若者たちのすさんだ表情、路地に何をするともなくたむろしている姿が目につく。彼らが、壁のこちらで描きうる「未来」と、エルサレムの都会を闊歩するユダヤの若者たちに見える「未来」との圧倒的な差異。

パレスチナのタクシー運転手の荒っぽい運転に身を固くしながら、生誕教会から世界各地に向けて送られるローマ・カソリックのクリスマス・ミサを思う。祈りの声は、映像は、隔てなく空を飛んでゆく。生誕の洞窟、生まれた場に嵌め込まれたベツレヘムの銀の星に蝋燭がゆらめく。この教会での受洗は信者にとっての最高の喜びだそうだ。
そのように神の愛を信じ、恩恵を感謝する人々に、灰色の高い分離壁と、隔たった2つの世界は、いったいどう映るのか。

この旅はあちこち、歌声に出会う旅だった。教会で、歴史的遺跡で、ときに灼熱の太陽の下、照り返しに蒸れる東屋の一画で、人々は集い、ミサを行い、祈り、歌っていた。
最後の晩餐の広間では、黒人グループの深々とした歌声を聞いた。ローマ軍との闘いで全滅したマサダの要塞でミサをしていたグループは、ユダヤ教の人々だろう。司祭に唱和する抑揚が、うねって砂漠の風にのってゆく。ベツレヘムの生誕教会では日本からの巡礼一行が、生真面目な顔を寄せ合い、細い声で「きよしこの夜」を歌っていた。信者にとっては、それぞれの地に特別な想いがあるのだろう。そうして、信仰と歌とは、いつでも手を携え、人をつなぎ、また分つ。

大使館移転で起きたデモ銃撃の4日後、イギリスのハリー王子の結婚式をTVで見た。
マイケル・カリー主教の、歌うように、叫ぶように、手を振り上げ、目を剥き、感情をむき出しに、「愛の力」を連呼する情熱的な説教に驚く。そして「 Imagine」の繰り返しにはジョン・レノンの『Imagine』を思わずにいられず。

想像してください。愛が唯一の道である世界を。
想像してください、愛が唯一の道である家庭や家族を。
想像してください、愛が唯一の道である近隣やコミュニティを。
想像してください、愛が唯一の道である政府や国々を。
想像してください、愛が唯一の道であるビジネスや商売を。
想像してください、この疲れ、くたびれた世界で、利他的、犠牲的、贖罪的な愛が唯一の道となることを。

続いて黒人聖歌隊の『Stand by Me』。これがウィンザー城の礼拝堂に響くなんて。
NYハーレムの教会でのミサを彷彿させる独特の黒人ゴスペル。ハーレムの地域共同体に根ざした生命が湧き上がるようなダイナミックなCall & Responseとパフォーマンス、会堂を揺るがす響きの渦に比べれば、整ったおとなしいものであったけれど、紛れもなく魂のゴスペルだ。

「愛の力」を信じよう、と繰り返すエネルギッシュな黒人主教のメッセージに打たれ、頷く人々。私もまた打たれた一人だ。
一方で、神こそが「愛と憎悪」を生む、という気持ちも打ち消せない。

ヨルダン川を挟む国境線に沿っての道すがら、砂と岩の荒地にぽつぽつ散らばるパレスチナの人々の部落、黒テントを見る。時折イスラエルの少年少女兵が銃を肩に突然現れる。愛と憎悪の種はこのように撒かれ。
底知れぬ沼地に引きずり込まれるようなその感覚を、今も苦く嚙みしめつつ『Imagine』を聴く。

 (2018/6/15)