東京交響楽団 川崎定期演奏会 第65回|藤原聡

東京交響楽団 川崎定期演奏会 第65回

2018年4月15日(日) ミューザ川崎シンフォニーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by T. Tairadate/写真提供:東京交響楽団

<演奏>
指揮:ジョナサン・ノット
コンサートマスター:水谷晃

<曲目>
マーラー:交響曲第10番 嬰へ長調 からアダージョ(ラッツ校訂版)
ブルックナー:交響曲第9番 ニ短調 WAB 109(コールス校訂版)

 

共に未完成に終わり、マーラーがブルックナーから影響を受けたためか曲想の上でも似た部分がある(精神的内容は相当に異なるが)この日の2曲。そう考えればこのプログラミングはある意味で理に適っていると思うが、一般的にブルックナーとマーラーはその音楽性が正反対だという認識があるためか、もしくは精神的に重くなり過ぎるということなのか、はたまた演奏者の負担の大きさのためかほとんど目にした記憶にない。あくまで内容本位で演奏曲目をキュレーションしていくノットならではの慧眼が表れたプログラミングと言うべきだろう。

1曲目に演奏されたマーラーであるが、これが極めて独特の相貌を持った演奏になっていて驚く。冒頭のヴィオラによる主題をノン・ヴィブラートで演奏させたのが新鮮であったが、それにしてもテンポが遅い。録音ではあるがかつてのシノーポリ&フィルハーモニア管並みではないか。さらにインテンポ基調(それゆえ動きが欲しいと思った瞬間もある)。そして楽曲の演奏造形においてもデュナーミクの幅をあまり大きく取らない、オケを絶叫させない。クライマックスである例の「カタストロフ」の場面においてもそうだ。全体として極めて静謐な雰囲気の内にハーモニーの精妙さを意識した演奏を展開させていた印象。表現主義的に濃厚な心情吐露とはまるで無縁であり、無調に近付いたこの曲の持つ特異性と前衛性、抽象性を聴き手に感知させるようなものとなっていた。これは明確にノットの「確信犯的」な演奏設計だろう。ここでのオケの演奏は素晴らしく、こういう演奏傾向ゆえ内的緊張感と正確さを保ち続けるのが実に難しいと想像されるが、東響はそれらをいささかも途切れさせることなく非常に精妙な演奏を聴かせていた。

後半のブルックナーは誠に激烈な演奏だった。つまり前半のマーラーとは真逆である。第1楽章冒頭のホルンの咆哮からして物凄い迫力だが、全曲を通してノットは神への帰依を果たす彼岸の音楽というイメージではなく、逆に「神の怒りを想え」とでも言うべき激しさを前面に押し出していたと思う。マーラーとはベクトルが逆だが、2曲共に通念的な認識とは違ったものとなっているように思う(これもまた確信犯)。その第1楽章では主題毎のテンポ変化は余り生かさずに泰然自若とした歩みを崩さないが、しかし音響は凄絶を極め、特にコーダの高揚には聴いていてめまいがしたほどだ。第2楽章になるとその激烈さは更に高まるが、この楽章をここまで激しく演奏した例はかつてなかったのではないか(ノットのアクションはまるで憑かれたかのようだし、第1ヴァイオリンの全身を使っての強烈なボウイングはけだし見物)。しかし、これが終楽章になると曲想の違いがあるとは言えその世界がまるで変わって見える。恐らく、最初の2楽章における常軌を逸した(と敢えて書くが)激しさはこの楽章の「浄化」とのコントラストのためだった。このドラマライズもまたノットの目論見だろう。この楽章で最も目覚しかったのは後半部の練習番号Lから「幅広く」(Breit)と指示された弦楽器のノンヴィブラートの箇所だ。ここでこのノン・ヴィブラートは1曲目のマーラー冒頭に繋がるのだが、ノットがこの点を意識していないとも思えない。乱暴に言えばマーラーの虚無、ブルックナーの虚心。これもまた対比的効果であり、度々記しているようにキュレーター・ノットの仕掛けた知的パズルを読解する楽しみはこういう箇所にあるのだけれど、しかしそれを抜きにしてもこのブルックナーは稀有な名演奏だった。コーダの浄化はかつて聴いたヴァントの実演に迫るものであったし、ここでも全曲を通しての東響の健闘ぶりを大きく称えたい。以前はノットの「したいであろうこと」が必ずしも具現化できていなかったきらいもあったのだが、この日のコンサートではその齟齬がほとんど感じられないところにまで来ており、ここからノット&東響のコンビはさらなる高みへ向かって行くことを確信させるような出来栄えであった。

(2018/5/15)