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東京春祭 歌曲シリーズ vol.22 ペトラ・ラング|平岡拓也

東京・春・音楽祭-東京のオペラの森2018-
東京春祭 歌曲シリーズ vol.22 ペトラ・ラング (ソプラノ)

2018年3月23日 東京文化会館 小ホール
Reviewed by 平岡拓也(Takuya Hiraoka)
Photos by 青柳聡/写真提供:東京・春・音楽祭実行委員会

<演奏>
ソプラノ: ペトラ・ラング
ピアノ:エイドリアン・バイアヌ

<曲目>
ブラームス:セレナード op.106-1
      われらはさまよい歩いた op.96-2
      愛のまこと op.3-1
      傷ついた私の心 op.59-7
      永遠の愛について op.43-1
マーラー:リュッケルトの詩による5つの歌曲

J. マルクス:森の幸せ
      
      日本の雨の歌
      ノクターン
      愛がおまえの心に宿ったなら
R. シュトラウス:響け op.48-3
        あなたは私の心の王冠 op.21-2
        あなたの黒髪を私の頭のうえに広げてください op.19-2(第2版)
        悲しみへの賛歌 op.15-3
        解き放たれて op.39-4
        懐かしい面影 op.48-1
        2人の秘密をなぜ隠すのか op.19-4

~アンコール~
R. シュトラウス:君の青い瞳で op.56-4
R. シュトラウス:僕らは踊り出したい気持ちだ
R. シュトラウス:献呈 op.10-1
ブラームス:子守歌 op.49-4
R. シュトラウス:献呈 op.10-1

 

2018年の東京・春・音楽祭では《ローエングリン》が取り上げられる。国際的な歌手の登場は同音楽祭ワーグナー・シリーズの大きな魅力だが、それは今年も健在。《ローエングリン》の影の主役とも言える大役・オルトルートを務めるペトラ・ラングは、今やこの役の世界屈指の歌手と言えるだろう。

メゾ・ソプラノとしてブランゲーネ、クンドリ、ヴェーヌス、ジークリンデ、そして勿論オルトルートといったワーグナーの主要な役柄にキャリアの早期から取り組み、2012年からはドラマティック・ソプラノの役柄でも次々と成功を収めてきたラング。2016年のバイロイト音楽祭ではカタリーナ・ワーグナー演出《トリスタンとイゾルデ》のイゾルデ役を歌い、同役で翌年2017年も登場した。今年も彼女が継続して歌うことが発表されている。また《ニーベルングの指環》のブリュンヒルデ役もウィーン国立歌劇場ほかで歌っている。
ラングは我々日本の聴衆にも馴染み深い存在だ。新国立劇場では2016年《ローエングリン》のオルトルート役、2017年《神々の黄昏》のブリュンヒルデ役で鮮烈な印象を植え付けた。2016年のウィーン国立歌劇場来日公演での《ワルキューレ》でジークリンデを歌ったのも、ラングだった。

そんなラングが歌曲の演奏会を行うと知ったときは幾分驚いた。何しろ彼女がレパートリーにしている作品がどれも極大のスケールを持つものばかりで、熟練のオペラ歌いというイメージが確立されていたからだ。勿論レパートリーにあるからこそ企画されたのだろうが、彼女の歌曲演奏とは果たしてどういうものか。

演奏会の最初にはブラームスの歌曲が5作品。ロマンティックな世界観をもつ〈セレナード(Ständchen)〉はやや調整気味という感じだが、作品を追うにつれ表現の迫真性が高まっていった。とくに〈愛のまこと(Liebestreu)〉〈傷ついた私の心(Mein wundes Herz)〉での苦しげな表情は流石のものだろう。
ここまで聴いてはっきり分かったのは、言葉に対するラングの鋭敏な気配りだ。ピアノの前奏に続いての歌い出し、次の連に移行する直前など、次に来る歌の内容と表情が見事に合致していることに静かな感銘を受けた。ただ、それが音楽の表情と完璧に一致しているかというと、必ずしもそうではないのであるが―。とはいえ、子音の捌きや悲劇的な表現力は、流石に現在一線で活躍する歌手のそれだと感じた。
マーラーの歌曲においては、ラングは一層の適性を示した。この作曲家の作品に通底する独特の疎外感や自暴自棄な表情、アイロニーは《リュッケルトの詩による5つの歌曲》でも勿論示されている。寧ろ、言葉が加わっている分より皮膚感覚として聴き手にはリアルに伝わるのかもしれない。〈わたしがこの世に忘れられ(Ich bin der Welt abhanden gekommen)〉の終結部の超然とした雰囲気には、彼女が昨年初台で歌ったブリュンヒルデの(自己犠牲〉の一節 “Alles, alles, alles weiss ich” を思い出した。

後半は、日本人にはまだ馴染みの薄いオーストリアの作曲家ヨーゼフ・マルクスの作品に始まる。公演に先立って公開されたインタヴューによれば、今回のピアニストであるエイドリアン・バイアヌはマルクスの直系の弟子にあたるようだ(バイアヌの師エリック・ヴェルバがマルクスの直弟子)。そのことを知ったのは演奏会の後だったが、なるほど歌とピアノの呼吸が見事に一致した演奏であったと思う。「日本の聴衆に紹介したい」という演奏者の意欲の表れだったのではないか。万葉集から採られた〈日本の雨の歌(Japanisches Regenlied)〉も淑やかで美しかった。ほかの作品においても、自然と人間の静かな対話が沁みる。
この後にはリヒャルト・シュトラウスの壮麗な歌曲が7作品並んだ。最後をシュトラウスで締めるというのは一見ハードに見えるが、比較的軽めの作品で一夜を開始し、声が温まってくる後半に比重を置くプランと考えれば自然だ。実際、十分に温まった声の魅力と作品の美質が呼応した演奏を聴かせてくれた。アンコールも、一曲のブラームスを除いてリヒャルト・シュトラウス作品が歌われた。

歌詞と音楽の内容が緊密に結びつき、最弱音や息遣いで歌の表情を変えていく―そういった歌い手をリート歌手とするならば、ペトラ・ラングはそうではないだろう。ただ、先述した通り言葉への鋭敏な生理的反応(=表情の変化)から判断するに、彼女が当夜の歌曲をレパートリーとして歌いこなしていることは間違いなさそうだ。音程のずり下げやずり上げの癖、繊細よりも劇性に傾きがちな音楽性はやや気になったものの、少なくとも後半では彼女の美質が活きた演奏を聴かせてくれたように思う。ピアノのエイドリアン・バイアヌは堅実だが、はっとする瞬間は少なかった。

(2018/4/15)

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平岡 拓也(Takuya Hiraoka)
慶應義塾大学文学部独文学専攻在学中。「フェスタ サマーミューザKAWASAKI」の関連紙「ほぼ日刊サマーミューザ」でコラムを担当、現在はオペラ・エクスプレス他ウェブメディアでコンサートやオペラのレポートを定期的に執筆。‬