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ピョートル・アンデルシェフスキ ピアノ・リサイタル|齋藤俊夫

ピョートル・アンデルシェフスキ ピアノ・リサイタル

2018年3月17日 すみだトリフォニーホール
Reveiwed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 三浦興一/写真提供:すみだトリフォニーホール

<演奏>
ピアノ:ピョートル・アンデルシェフスキ

<曲目>
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ:
  平均律クラヴィーア曲集(プレリュードとフーガ)第2巻より
    第1番、第17番、第8番
  イギリス組曲第3番 ト短調
  イギリス組曲第6番 ニ短調
(アンコール)
ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン:『6つのバガテル』
フレデリック・ショパン:『マズルカ イ短調』
レオシュ・ヤナーチェク:『草陰の小径第2集』

 

ポーランド出身の世界的ピアニスト、ピョートル・アンデルシェフスキ、まず始めに弾いたのは平均律クラヴィーア曲集第2巻より第1、17、8番。

第1番プレリュードは、ゆっくりと始まり、飾るところのない朴直な演奏。フーガでは一転してテーマを華やかに響かせる。第17番はプレリュードもフーガも愛らしく、しかし派手になることなく、ピアノを弾く事自体の喜びにあふれているのは少女(マンガ?)的とすら感じた。第8番プレリュードはごく弱い音でそっと始まり、音が響くことによってより静けさを感じさせるという神秘的な演奏。フーガもまたごく弱い音で、さらにごく遅いテンポで、テーマの持つ悲しさを表現し、そしてテーマが対位法的に重なり、繰り返されることで悲しさは「悲劇」となって現れてきた。

イギリス組曲第3番、プレリュードの爪弾くような冒頭は素っ気なく始まり、そこから次第に音量の幅も広く、表情豊かに音楽の絵巻を広げる。アルマンドはぐっと禁欲的に、静かな音量での1音1音を謹聴させる厳しい音楽。クーラントは滑らかに旋律を聴かせる。
サラバンド(第4曲、第5曲)は音がズシリと重い。冒頭での強音はもちろん、その後ずっと続く弱音も全ての音に全神経を集中せざるを得ない重さ。そしてテンポの遅さはもはや舞曲ではない。宗教的・儀式的とも言えるこの音楽に筆者は先月のクニャーゼフの無伴奏チェロ組曲を想起した。
ガヴォット(第6曲、第7曲)は舞曲であっても、1人で踊っているかのような舞曲。第7曲に入り長調に転調してもその寂しさが消えることはない。音の軽やかさが明るさではなく、寂しさを喚起する。
最終曲ギーグは、恐ろしく正確なタッチによる、急速で、激情的で、そして悲劇的な音楽。この短調の組曲を締めくくるのにふさわしいが、破滅美すら感じさせる演奏解釈に震撼させられた。

イギリス組曲第6番、プレリュードは「おや?」と思うほどにロマン派的な感情的、あるいは感傷的な序奏に始まる。主要部分に入るとその感傷的な哀しみと喜びが対位法により結合した、音楽でしかありえない情動を呼び起こしつつ、豪壮な音楽的建築物を建立する。
アルマンドは第1曲から一転して穏やかな音量と速度で淡々と弾かれるが、やはり孤独な哀しみに満ちている。
クーラントはかなりの速度で流麗に旋律を歌い上げるが、それを聴く人はもういないかのように、歌は虚空に消えていく。
サラバンドは第3番の同曲のように極めて遅く、極めて弱い音で。だが、宗教的ではなく、もっと人間的な、血が通い、涙を流しているような音楽。
ドゥーブルはサラバンドよりもさらにゆっくりと。対位法はほとんど聴こえず、単旋律的を自分で自分に聴かせているかのように歌う。
ガヴォット(第6曲、第7曲)は舞曲的であり、対位法も聴こえてくるのだが、決して華やかにならず、遠い記憶の中の舞踏会のよう。第7曲に入って長調に転じ、右手をオクターブ上げて最高音域で奏でる部分がなんとも切ない。
第7曲と曲間をほとんど空けずに演奏に入った最終曲ギーグは、下降音型の反復進行が幾声部にも渡って強靭な音色で現れ、悲しみが絶望に至ったかのような鬼気迫る音楽を成し、その絶望の頂点が音楽的頂点に至った瞬間に終曲となった。

アンデルシェフスキの透明な音と完璧な技巧により、かくも複雑な感情、いや精神を具えたバッハが現れたのに心底驚かされた。生涯忘れられないバッハとなろう。

しかし、アンコール3回で30分以上もかけたのは、いささか聴く方としても疲れてしまったというのが正直なところである。特にヤナーチェクはあまりに長く(少なくとも20分以上かかった)、メインプログラムのバッハでの感銘がやや冷めてしまっての帰路となってしまったのは残念であった。

 (2018/4/15)