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小人閑居為不善日記|怪物と自警団のアカデミー賞|noirse

怪物と自警団のアカデミー賞

text by noirse

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わたしはミーハーである。第90回アカデミー賞も存分に楽しんだ。だがここではミーハー気質とは距離を取った上で、2本の映画について注目してみたい。

前々回(第88回)、ノミネートが白人に集中していたため、「ホワイトウォッシュ」と散々批判されたアカデミー賞。その批判に応えるため、またトランプ政権への反発もあり、ここ2年でぐっと多様性を高めてきている。プレゼンターとして登壇したコメディエンヌ、ティファニー・ハディッシュの「今年は黒人が多すぎると思わない? 大丈夫、これから白人がたくさん登場するから」というジョークこそ、今回のアカデミー賞を象徴する言葉だろう。

だが果たしてアカデミー賞は、本当に保守性から脱却できたのだろうか。

今回の焦点は、《スリー・ビルボード》と《シェイプ・オブ・ウォーター》に絞られた。前者は娘を殺された女と警察署長、その部下の3人を中心に据えたドラマで、巧みな脚本と熟達した俳優の演技が高く評価された。一方後者は、半魚人と人間の恋を描いた怪物映画だ。怪物映画がアカデミー賞にノミネートされるのは、とても珍しい事態である。

舞台は1960年代初頭、冷戦下のアメリカ。発話障害を持つ清掃員イライザの勤務する宇宙センターに秘密裏に「半魚人」が運び込まれ、サディスティックな軍人から拷問まがいの実験を受ける。イライザは怪物に恋し、脱出計画を練る。

手掛けたギレルモ・デル・トロは、怪物映画やホラー、日本のアニメや特撮映画で育ったオタク監督で、《シェイプ・オブ・ウォーター》と同じころ、60年代(1964年)に生まれている。彼の趣味は当時、周囲には理解されにくかったろう。デル・トロはその孤独を、モニターやスクリーンの中で、社会から迫害される怪物に投影していたようだ。

この映画は、おなじみ《美女と野獣》へのアンチテーゼを突きつけている。野獣を好きになったのならば、最後に「王子様」になるのはおかしくはないか。野獣そのものを愛してはいけないのか。ここには当時のディズニー映画に代表される、旧弊な価値観への疑義が込められている。

さらにデル・トロは、怪物を守ろうとする者たちを、発話障害の女性、ゲイの男性、黒人の女性清掃人など、マイノリティな人々に設定した。トランプ政権下、分断の進む今こそ、本作を作る意味があったとデル・トロは述べている。デル・トロ自身メキシコ人でもある。差別されてきた怪物と、国家に虐げられるマイノリティを重ね合わせた《シェイプ・オブ・ウォーター》は、怪物映画として初のアカデミー作品賞受賞に輝いた。

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だが《シェイプ・オブ・ウォーター》は、本当に保守的な価値観に対峙する、革新的な作品だったと言えるのだろうか。

デル・トロが紡ぐ冷戦下のアメリカは、ひどくノスタルジックに綴られていく。イライザは音楽やダンスを好み、ミュージカルのような恋を怪物に投影し、往年のミュージカル映画やカルメン・ミランダの映像、アリス・フェイの歌が、それを心地よく演出する。

このアプローチは、昨年のアカデミー賞最有力候補となった《ラ・ラ・ランド》と同じだ。《シェイプ・オブ・ウォーター》は、多様性や反差別を売り物にしながら、一方でアカデミー会員の大半を占める白人高年齢層におもねる「あざとさ」に満ちている。

また、自己のオタクとしてのルサンチマンを怪物に委託する点にも首肯しかねる。たしかにひと昔前までは、オタクは「迫害」されていたかもしれない。だが今は、運動部のエースから黒人のラッパーまで、多くの人々がアニメやゲームを好んで恥じない時代だ。もはやオタク文化は、立派なマジョリティなのだ。安易にオタクをマイノリティに位置付け、賞に秋波を送る仕草こそ、権力に迎合する姿勢ではないだろうか。

もうひとつ気になるのは、自らのルサンチマンを晴らすのに怪物を利用していることだ。《美女と野獣》でロマンスの道具にされた野獣と、《シェイプ・オブ・ウォーター》で「政治的正しさ」のために選ばれた半魚人は、「利用された」という意味では変わりはない。いや、デル・トロのようなオタクが怪物を「利用」するほうが、問題の根は深いと言えよう。

あえて辛辣に言えば、《シェイプ・オブ・ウォーター》に出てくる怪物は、「政治的正しさ」を具現化しただけのキャラクターに過ぎない。幼いデル・トロが、孤独で暗い想像力を委託したモンスターは、この映画には影も形も存在してはいないのだ。

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次に、作品賞を逃した《スリー・ビルボード》を見てみよう。暴力が横溢するこの作品は、「南部らしい」と言われることが多い。だが舞台となったミズーリ州が位置するのは中西部だ。ミズーリ州は南北戦争の際に南軍側に付いたため、南部とカテゴライズされることもある。だが南部と言い切るのは大雑把すぎる。

重箱の隅をつつきたいわけではない。こういった誤解にこそ、この映画の特徴が表れていると思うからだ。たしかに《スリー・ビルボード》には、南部と聞いて抱くパブリック・イメージが充満している。だが細かく見ていくと、ところどころにズレがある。南部らしさを偽装していると言ってもいい。ここには外部的な目線が宿っている。

たとえば、劇中で使用される音楽。重要なシーンで流れる〈Night They Drove Old Dixie Down〉は、南北戦争での南軍の敗北を、南部側に立って歌った曲だ。だが作曲したザ・バンドは、メンバーの大半がカナダ人。使用されたのはジョーン・バエズのヴァージョンだが、彼女はネイティブの血が混ざっているニューヨーカーだ。意味深なセレクトである。

内容はどうだろうか。《スリー・ビルボード》は、3枚の広告板(スリー・ビルボード)と、3枚の手紙によって登場人物たちが突き動かされ、ドライブしていく物語。つまり、徹底的にテキストに支配されているわけだ。監督のマーティン・マクドナーは英国の戯曲家で、映画界に転身した経歴の持ち主。映画というよりは戯曲や、文学らしい趣向だろう。

また、テキストによって感情を揺さぶられ、誘導されていく点は、ツイッターやフェイスブックなどのSNSを彷彿とさせる。フェイスブックの個人情報が政治利用されたニュースが耳目を集めているが、《スリー・ビルボード》はそうしたアメリカの現状を掬い上げ、浮き彫りにさせている。

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さらに、途中でとある変節を遂げる、ある人物に注目してみよう。保守的で差別心むき出しの、いかにも「南部らしい」人物だが、ふとしたきっかけで考えを改めることになる。それを「良心に目覚めた」と受け取る感想をよく見かけるが、それが正しいかは疑問だ。たしかにその人物はある種の善意に目覚めるが、その結果、法を犯す決断を下してしまう。それは果たして「良心に目覚めた」と、安易に言えるものなのだろうか。

正しければ、法を犯しても許されるのか。いわゆる自警主義(ヴィジランティズム)は、アメリカでは共和党支持者に多い考えだ。自警主義を体現する映画も数え切れないほどある。わたしがすぐ連想するのは、《ダーティ・ハリー》などのクリント・イーストウッド関係の映画だが、彼は共和党員でもある。

最近だとマーベルのアメコミ・ヒーロー映画に、自警主義的な傾向がよく見られる。だが一連のマーベル映画は、リベラルなメッセージを掲げた映画として評価されることが多い。もちろん映画から何を読み取るかは観客次第だが、ではマーベルのCEO、アイザック・パールムッターが熱心なトランプ支持者で多額の寄付金を都合していることを、どう受け取ればいいのだろうか。

現在、マーベル映画の新作《ブラックパンサー》が大ヒットを記録している。スタッフ、キャスト共に黒人主導で製作された点などが強く支持され、アカデミー賞受賞式でもわざわざコーナーが設けられるほどの人気振りだ。だが、メッセージ性の強い内容に喜んだ観客が払ったチケット代の一部は、トランプの政治資金として使用されていく。

SNSと同じように、映画も感情を誘導し、誤作動させるメディアだ。《スリー・ビルボード》は、「南部」というパブリック・イメージを逆手に取り、観客の感覚や通念をズラしていく。最終的に観客は、自覚のないまま法を犯すことに躊躇しない、自警主義者の側に立ってしまうのだ。

巧みに人間の持つ保守的な心性を露呈させる《スリー・ビルボード》が作品賞を逃し、リベラルを偽装する保守的な《シェイプ・オブ・ウォーター》が射止める。今回のアカデミー賞も、結局保守性が横溢したレースだったわけだ。

しかしそれは、初めから分かりきっていることだ。アカデミー賞が真に革新性を帯びることなど、金輪際ありえまい。それを理解した上で、今どの映画が保守的な層にウケているのか、それを確認できるのも、アカデミー賞の「面白さ」なのだ。

 (2018/4/15)

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noirse
佐々木友輔氏との共著《人間から遠く離れて――ザック・スナイダーと21世紀映画の旅》発売中