アレクサンドル・タロー ピアノ・リサイタル|小石かつら

アレクサンドル・タロー ピアノ・リサイタル

2018年3月22日 京都コンサートホール アンサンブルホールムラタ
Reviewed by 小石かつら(Katsura Koishi)
写真提供:京都コンサートホール

<曲目>
J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988~アリアと30の変奏〜
(アンコール)
ジャン=フィリップ・ラモー:《クラヴサン曲集》より「野蛮人たち」

 

有名なリストのカリカチュアに、腕が8本ある蜘蛛のおばけのようなリストが、鍵盤をバラバラに破壊しているものがある。むろん、リストの演奏は聴いたことがない。でもきっと、腕8本での演奏は、当夜のタローのゴルトベルクとは、まったく対極のものだっただろう。タローの演奏は静寂そのもの。いや、静謐のほうがもっと近い。しかし身体構造については、私には、そのカリカチュアが眼前にチラチラと見えた。タローの身体は(リストとはちょっと違って)、指が、2本の腕に5本ずつ分配されているのではなくて、10本それぞれが、独立して身体から伸びているように思えたのだ。グロテスクで失礼。完璧に制御された精密機械、と言えばいいだろうか。

ピアノは、ペダルによる操作は可能なものの、どんなに頑張っても一段鍵盤である(当夜はヤマハCFX)。ひとつの鍵盤にしか触れることができないのに、それぞれの指は、異なる次元の、別の種類の、別の音を、つむぎ出す。しかもそれは、次から次へと正確にきざまれる。その正確さは、当たり前ながら美しいトリルを生む。ころころと、弦を直接もてあそぶかのようなトリルに、「装飾する」という役割の真意を見たような気がした。その優雅さに、うっかり心を奪われる。

ところが、きらびやかな輝きにうっとりするのも束の間、「変奏」がひとつすすむと、ころりと色が変わる。心を奪われても、ぼんやりしていられないのだ。この多色性を可能にしている技術のひとつには、ペダル操作がある。右ペダルでは、半音がつくり出す不協和音を、チャルメラの濁りのように、ふわりと響かせる。左足は大忙しだ。和音をクリアに際立たせたかと思えば、くぐもる音で意表をつく。

手も指も足も自在だが、タローの身体は、ほとんど動かない。全身が、先端にだけ神経を集中させている。少女漫画に描かれるような細くて長い指が、上がったり下がったり。淀みないテンポで音楽はすすんでいくのに、指の部分だけが、常にスローモーションで、鮮やかに、くっきりと見える。(しつこいが、1×10として独立した指が、である。)

そのようにして発生する全体は、タローの華奢な身体からこぼれ出るおとぎ話だった。バッハの音楽は、古典派、ロマン派という音楽史を通り越して、近・現代音楽までを内包していると言われるが、それが、画面いっぱいのマンダラ塗り絵のように、具現されたのだ。すべての変奏が終わって最後のアリアが始まったとき、立ちのぼる香りと、極限までの開放感に、息をのんだ。不思議だけれど、拍手が、深いところから湧き上がるようにおこった。上品な、大喝采。

何か別のもので「ゴルトベルク」を壊されたくない、というのが私の願いだった。そうは行かず、アンコールとしてラモーの「野蛮人たち」。ところがそれは、私の予想と裏腹に、読み聞かせのあとのキスのような、ほんのり親密な、「アンコール」のお手本だった。

(2018/4/15)