カデンツァ|平昌に寄せて〜南北軍事境界線|丘山万里子
平昌に寄せて〜南北軍事境界線
text & photos by 丘山万里子(Mariko Okayama)
平昌オリンピックでは私も羽生結弦に釘付け。ライブを見ながらジャンプの度に両手を握りしめた口で、終盤での鬼気迫るスケーティングには震撼させられた。その後の報道の過熱ぶりは無理もないが、“伝説”を書き重ねてゆくこの若者の常によどみない対応と完璧な笑顔、言葉の的確さに感嘆しつつも、一抹の危惧を覚えた。
TVで松岡修造の「羽生さんにとってこのオリンピックを一言で言うなら何ですか?」との問いに間髪をいれず「幸せ」と答え、「たくさんの幸せを捨ててできた幸せの結晶」と続けるのを聞き、その優れた表現力に半端なさを感じたが、どこか危うくもある。
この金メダルが、日本人が大好きな“痛みをこらえて偉業達成”の根性・精神礼賛、はたまた“禁欲讃美”にどう利用されるか、などといった表層のことでない。
帰国後の記者会見で外国人記者を前に、アジアのスケーターの圧倒的不利や、日本的な音楽の使用に触れつつ文化に言及、また、技術と芸術についての明確な認識と説明など、堂にいったもので、振り回されない確固たる軸を感じはしたものの。
銀メダルの宇野昌磨のウトウト会見ぶり、とりたてて別に、の表情と発言は好対照で、メディアはその構図を喜んだが、アスリートを商品化、消費一方の趨勢に、羽生はどう「金メダリストしての人生を全う」するのだろうか。
国民栄誉賞での「東日本大震災被災と怪我を乗り越え」のお題目にはいささいか鼻白んでしまう。
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話は変わる。
平昌はソウルから車で高速道路を東に3時間ほどの都市。北朝鮮と韓国を分断する軍事境界線(38度線)からは80キロの距離だ。
競技放映の合間に挟まれた番組でレポーターが境界線近くの村を訪れ、向こうの北朝鮮を望遠鏡で覗き、「あ、何かやってますねえ。サッカーみたいだ!こういう姿見るとちょっとほっとするというか・・・」とコメントするのを聞き、ん?と思った。 なるほど、庭みたいなところで数人が走り回っているのが見える。
私が韓国に行ったのは1996年、前年に死去したユン・イサンの母国を訪ねようと思い立ってのこと。彼の追悼コンサートで作品をまとめて聴いた夜(凄かった)、来日した夫人が挨拶に「彼の音楽は“慟哭”の音楽」と語った時、行こう、と思った。
サッカーW杯の日韓合同開催決定直後で、街のいたるところにその小旗が翻っており、日本との温度差を感じた。一週間の滞在で、無論、ソウルの音楽関係者、作曲家たち(カン・スキら)に会い、演奏・創作・教育の現場に触れ、コンサートに行き、明洞をぶらついた。
その折、板門店にも行き(ソウルからのバスツァー)、イムジン河に渡る風に吹かれながらガイドの説明を聞いたのだ。
川向こうに見えるのは“宣伝村”で、住人のいない見せかけの村、人影は宣伝活動、私たちはこんなに楽しく元気に暮らしています!と。彼らは夜になると姿を消します。
けっこうモダンでカラフルな村の中には塔が立ち、北朝鮮の国旗がはためき、拡声器で何やら音楽(北の賛美だそう)が流れ、なだらかな山の中腹にはハングル語で大きな文字看板があちこちに見えた。「米軍、帰れ!」と書いてあるとガイドは言った。
板門店では、敵対する南北の兵士たちがそれぞれの軍服で向き合って自分たちのエリアを警護しており、会議室の真ん中には分断コードが床を這い、机上にも伝っていた。ガイドから、外国人は跨げますよ、と言われ、跨いでみたが、窓の外からそんな私たちをじっと兵士が監視しているのであった(外国人の“特権的自由”は、訪れた国々で様々に体験したが、板門店とパレスチナ自治区ベツレヘムは、胸に鉛を撃ち込まれ、疼き続ける)。
時は流れ、変化もあって当然だが、つい最近も北朝鮮の難破漁船が漂着するニュースが繰り返され、一方での南北合同オリンピックムードに、複雑な思いもあった。
開会式での南北選手の聖火点火とそのあとの二人の会見での、まるで異なった表情、答えに、抱えるものの重さ深さを感じた人は多かろう。
望遠鏡の向こうでサッカーに興じる村人たち、合同選手団、漂流遺体・・・。
何が真実かなど、誰にもわからない。
北朝鮮と米国、狂人をいただく国の行方は不明だ。
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昨日、久々にユン・イサンのオーケストラ作品を聴いてきた(3/3@サントリーホール)。『チェロ協奏曲』。日フィルで下野竜也の指揮、チェロはルイジ・ピオヴァノ。
ユン・イサンは、戦前、ソウルで音楽を学んだのち訪日、大阪で勉学を続けたが、朝鮮の人々だけが住む最も貧しい地域に住み様々な体験をした。帰国後、反日運動で逮捕されたが、戦後しばらくは教壇に立った。56年にパリ音楽院、ベルリン芸術大学に留学、63年には北朝鮮を訪れている。彼の悲願は、南北朝鮮の統一であったが、常にそうした政治的発言や行動をしたために、67年北朝鮮のスパイとして西ベルリンでKCIAに拉致され、本国へ送還、死刑宣告を受け獄中の人となった。世界中の音楽家たちの抗議と西ドイツの政治的圧力により69年、大統領特赦によって釈放された彼はベルリンに戻り、当地で逝去した。彼のもとからは、細川俊夫、三輪眞弘など、今日の日本の作曲界を牽引する人材が育っている。
この『チェロ協奏曲』は75~76年に、自伝的作品として書かれたもの。彼の70年代の器楽協奏曲は対立構造を採用「個人と社会の対立という風に伝記的に解読されるばかりでなく、常に一般的な経験をも含む」(ユン・イサン『わが祖国、わが音楽』影書房)。
チェロは作曲家自身、オーケストラは社会、と語られるが、そのような言葉がなくとも、また、彼の生涯を知ることがなくとも、その音楽の異様な激しさは、その日の聴衆を沈黙させるに十分だった。
オケの、マスではなく線(声だ)の重層が生む音圧(ユン・イサンの特徴)と斬り裂くような殴打に、チェロが身悶え、喘ぎ、叫び、嗚咽する全3楽章。終章終盤でチェロが心を閉ざし、オケが安寧のA音に収斂した後の、如何とも言い難い、戸惑うような客席の拍手にそれがよく表れていた。
下野はこの曲の前に、明るく伸びやかなチェロ独奏を持ったスッペ『喜歌劇<詩人と農夫>序曲』を置き、軽快なワルツで盛り上がったから、聴き手の衝撃は大きかったろう。
私は、ユン・イサンの音楽の持つ政治性に必ずしも同意はしないが、それを超え、音そのものに、聴く者を立ち止まらせる力があることは確信する。
アンコールに現れた長身のチェリストは、チェロを抱き、ピアニッシモで静かにいたわるようなメロディーを奏で、そして囁くように、語りかけるように、テノールの温かな小声で歌った。『アブルッツォ地方(イタリア)の子守歌』(作者不詳)。
ほっと救われたような空気が場内に漂い、やがてブラボーがかかった。
音楽は、こういうことができる。
人の心の崩落に、世界の亀裂に、しみ通ることのできる力を、私は信じる。
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<追記>
入稿後、米朝の首脳会談が5月末までに開かれる、との報道。
脅し合いが終わることを祈るばかりだ。
(2018/3/15)