アンナ・ヴィニツカヤ  ピアノ・リサイタル|藤原聡

アンナ・ヴィニツカヤ  ピアノ・リサイタル

2018年2月2日 サントリーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<曲目>
プロコフィエフ : ピアノ・ソナタ第4番  ハ短調  op.29
ドビュッシー : 前奏曲集より
 ・雪の上の足跡
 ・西風の見たもの
 ・亜麻色の髪の乙女
 ・月の光が降り注ぐテラス
 ・花火
ドビュッシー : 喜びの島
ショパン : 24の前奏曲
(アンコール)
ショパン : 練習曲 op10-1
ショスタコーヴィチ : 人形の踊り〜ガヴォット、ロマンス

 

アンナ・ヴィニツカヤと言えば、2016年の9月にインバル&都響と共演したプロコフィエフの『協奏曲第2番』がずば抜けた演奏だった記憶が鮮烈だ。これ以前にも2015年4月にはフェドセーエフ&N響と、そして2016年の5月にはウルバンスキ&大阪フィルと共演してラフマニノフの『協奏曲第2番』を弾き、アーティスト情報が(恐らく)ほとんどないまま会場入りした聴衆をその名演で驚かせたようである。筆者は先述したインバル&都響のコンサートにおいてその名前と演奏を初めて知ったのだが、今もヴィニツカヤという名前はよほどのファン以外には浸透していないのではないか(拙稿のリサイタルも空席がかなり…)。調べると今までにリサイタルも何回か行ってはいるようだが、そこでの評判が大きく拡がるには至っていないということか。

まずはインバル&都響定期にて驚かされたプロコフィエフだが、ここでも鮮烈の一語。音のエッジが鋭く立っており、その低音は実に図太く強靭な音を響かせるが、それでいて力づくなところはまるでなくバランス感覚にも富んでいる。ことさらに女流、などという冠を付ける必要もないとは言え、しかしそれでもこの「女流離れ」したパワーには驚く。しかもそのタッチの種類は豊富で、柔らかい音や硬い音、浅い音に深い音なども音楽が求めるものに応じて巧みに使い分ける。抒情的な表情付けを聴かせる第2楽章中間部と終楽章での驀進の対比にも仰天させられたが、しかしそれらがあくまで自然な感触をもって演奏され、これみよがしなわざとらしさが皆無。これは凄い。

次のドビュッシーにおいてもそんなヴィニツカヤの実力は遺憾なく発揮される。全てが明快に割り切れた演奏であり、その意味ではこの作曲者の象徴主義的な側面は後退し、より純然たる精緻な音響体としてのドビュッシーという趣。だがその「精緻さ」のレヴェルが尋常ではない。前奏曲集各曲の題名は楽譜の最後におずおずと付随していることからも分かるように、それらのイメージに引きずられ過ぎることを作曲者は警戒しており、その意味では名演奏には違いないにせよより詩的な演奏が個人的には好みではある、とは正直に書いておく(『花火』であの『ラ・マルセイエーズ』が遠くから微かに響いて来る辺りにもう少しの余情があれば…)。『西風の見たもの』もヴィルトゥオジティが前面に出過ぎていると思うし、『喜びの島』も同様(この数日前に聴いたチョ・ソンジンの方が明確に好きでした)。まあ考えは人それぞれでしょうね。

だが休憩後のショパン、これは圧倒的という他ない。「花の影の大砲」とはシューマンがショパンを評した名高い言葉だが、今までにこの言葉をこれほど実感させるような『24の前奏曲』の演奏を聴いたことがなかった。どの曲も表面的な甘さに流されない毅然とした勁い表情を湛え、高潔で通俗とは全く違う地平にある演奏。しかし、表面の勁さの殻に秘められたその歌はセンシティヴで作曲者と演奏者の感情の動きがその都度反映されて猫の目のように変容して行く。
第2番や第4番の沈滞、第5番に内包された複雑な感情のアラベスク、辛口かつ大変に魅力的な第7番、有名な『雨だれ』の高貴さ、それに続く第16番の爆発、遂に到来する終曲のカタストロフ…。
思い出した曲をアトランダムに挙げたが、通俗かつ凡庸な表現が全くないのである。そんな演奏を24曲に渡って一気呵成に聴かせてしまうヴィニツカヤの実力たるや並大抵のものではない(演奏途中の小休止で拍手とブラボーを数回浴びせた輩には閉口したが…。一体何を聴いているのか?)。
先に名を挙げたチョ・ソンジンの『24の前奏曲』の実演にも感嘆させられたのだが、乱暴に要約すればチョ・ソンジンが「軟」ならヴィニツカヤは「硬」とでも言いうる。タイプは全く異なるが、このように優れた『24の前奏曲』を実演にて接することの出来た僥倖。ヴィニツカヤの『24の前奏曲』の演奏後には会場からは熱心なブラボーが浴びせられたが、それも道理だろう。

喝采に応えてアンコールが3曲弾かれたが、ショパンでは正確無比でムラのない5指コントロールが圧巻であり(平均的な技術が上がったと言われる昨今においても特筆すべきレヴェル)、ショスタコーヴィチでは千変万化する音彩に魅力されることしきり。
ピアノ音楽ファンはもちろん、特にそういう訳でもないけどね、というクラシックファンの方も「アンナ・ヴィニツカヤ」という名前は覚えておきましょう。来日の際には聴くべきです。

(2018/3/15)