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モルゴーア・クァルテット 結成25周年記念コンサート vol.2 |丘山万里子

モルゴーア・クァルテット 結成25周年記念コンサート vol.2

2018年1月29日 東京文化会館小ホール
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 林喜代種( Kiyotane Hayashi)

<演奏>
モルゴーア・クァルテット
  vn:荒井英治、戸澤哲夫
  va:小野富士
  vc:藤森亮一

<曲目>
林光:弦楽四重奏曲『レゲンデ』(1990年完成版)
池辺晋一郎:ストラータXII—弦楽四重奏のために(委嘱作品・世界初演)
〜〜〜〜
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第3番ヘ長調 Op.73 (1946)
吉松隆:アトム・ハーツ・クラブ・カルテット Op.70 (1997)
(アンコール)
キース・エマーソン:『アフター・オール・オブ・ディス』(作曲者自身の編曲による弦楽四重奏版)

 

「ワレワレノマエニミチハナイ ワレワレノアトニミチハデキナイ・・・モルゴーア」。
モルゴーア・クァルテット結成25周年記念コンサート、感謝特別企画第2回のチラシ文だ。プログラムの表紙にもこれが真ん中に鎮座している。
けっこうな「啖呵」じゃないですか!
1992年に結成、93年からショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲15曲の全曲演奏をスタート、オーケストラ・メンバーが集まって自分たちの好きなことやりたい、のがショスタコ全曲とは、と当時かなり興味をそそられた、まだ若き面々であった。
2001年に完奏以降も着実かつ攻めの道を快走、近年プログレ・ロック路線に突進、若いファン層を開拓、まさに道なき道を振り返ることなくゆく男たちである。

「気概」。
当夜の作品と演奏にあったのはそれだ。
林光、モルゴーアに寄り添い続けたこの作曲家の『レゲンデ』は天安門事件がモチーフ。彼は常に時代・社会の動向に声をあげるのをためらわなかった人。民主化を求め広場を埋めた学生たちが軍隊に蹂躙・鎮圧されたこの事件への鎮魂、全3楽章の最初と最後にチェロの呻吟・瞑目モノローグを置く。圧倒的な権力・武力による血の弾圧をザクザクと弓で斬り上げ、打ち下ろし、だが、音は林らしい美感を失わない。
池辺もまた「平和・反戦」の社会派(こういう括りはもはや時代遅れだろう、あるいはもう見当たらない、か)だが、こちらは完全にモルゴーアのプログレに呼応、単1楽章に学生時代の破棄作を一部蘇生させ、構成も手際よく、にもかかわらず手慣れた感が一切ない、ガンガン音が弾け飛ぶ推進力と驀進力に溢れかえった快感作であった。
つまり、林と池辺を貫くのは、自分の居る場所・時への鋭敏かつ柔軟な反応の仕方で、なお、音楽にそれぞれの自恃があり、それを「気概」と私は感じた。
そしてその自恃を汲み取り弾きあげるモルゴーアの、これまた「気概」。

ショスタコーヴィチにしてもそうだろう。
スターリン体制下で生きた作曲家の声が、時に生々しく、時に静かに、時に痛みを伴い、響いてくる。林や池辺で聴こえた声(池辺のプログレッシブな快感にだって、だ)がここにもあり、3者の底に流れるある種のプロテスト(これも気概)をも見た、と言っておく。
中でもチェロとヴィオラの濃やかな表情が、全5楽章の多彩な相貌にとりわけ色を添えていた。

では、吉松はどこに立つか。
なんて理屈は飛んで、私は存分に楽しんだ。
EL&P、ピンク・フロイド、ビートルズを「鉄腕アトムの10万馬力でシャッフル」(プログラムノート)したこの曲。
男たちは足踏み鳴らし、身体揺すって、「俺たちってば、どうよ。ロックだぜ!」と阿修羅のごとく舞台を蹴散らす。あるいは目を閉じ三昧・陶然と。

もう若くない。
が、噴き出す熱とエネルギー。
どこまでも、時代に、音に、挑み、飛びかかる。
アンコール前の挨拶での新井の言葉。
「音楽は癒しなんかじゃない。音楽は人間の尊厳だ!」
これをこそ「気概」というのだ。

行け!孤軍の男たち。弦楽四重奏の独自ワールドを、押し分け、かき分け、踏み分けて。
満員の聴衆大喝采のふつふつ熱き一夜であった。

関連評:モルゴーア・クァルテット 結成25周年記念コンサート vol.2|齋藤俊夫

(2018/2/15)