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五線紙のパンセ|その3)|望月京

その3)

text & photos by 望月京(Misato Mochizuki)

「全世界500万部突破!」と巷で話題の『サピエンス全史 –文明の構造と人類の幸福−』(柴田裕之訳、河出書房新社、2016年)の中で、著者ユヴァル・ノア・ハラリは、現在の人間社会の根幹をなすさまざまな仕組みや概念(国家、法律、民主主義、政治、人種や性別による不平等の根拠、経済、株式市場、科学への信頼…)が人の集合的想像力と言語によってもたらされた虚構であり、その「虚構の物語」の共有が、狩猟採集時代の昔より今日まで、見知らぬ人々を束ねる共同体の形成、維持、発展に寄与し、結果としてサピエンス(現生人類)の繁栄と世界制覇を導いたと述べている。

「虚構」を作り上げるのは想像力だが、それを疑念なく信じ込むようになるのは、環境や教育による一種の「洗脳」の賜物ともいえよう。
たとえば、「時は過去から未来に向かって一直線状に経過する」とか、「未来は過去や現状を打ち砕くことで拓ける」という思い込みもそのひとつであろう。特にそれがヨーロッパ人に顕著であるように思われるのは、「アルファベットと印刷技術の発明による活字を読む経験が、人間の全感覚における視覚の優位性や、直線的・連続的な発想を強めた」(マクルーハン、『グーテンベルクの銀河系』1962年)ことや、「前をゆく者(父)を倒さなければ息子は生きてゆくことができない」という「オイディプス神話」(「オイディプス」の名には「足萎え」の意味があるという)などの影響が大きいのかもしれない。それは、芸術における、時になかば強迫観念めいた「前衛」という概念およびその追求にもつながっているのではないか?

先月私の新作《Têtes》(頭/顔)が初演されたドナウエッシンゲン現代音楽祭や、このコラムの第1回で触れたここ数年のダルムシュタット国際夏季講習会で聴いた(見た)いくつかの作品に共通する傾向から、ふとそんなことを連想した。
これらのドイツの音楽祭は、それぞれ90年、70年を超える長い歴史のなかで、シェーンベルク、ヴェーベルン、ベルク、アドルノら新ウィーン楽派とその重要関係者たち、メシアン、ケージ、リゲティ、ノーノ、ブーレーズ、シュトックハウゼンといった巨匠たちが記念碑的な作品や言説を残した場所であり、今も一般聴衆を遥かに凌駕する数百人規模の現代音楽業界関係者(作曲家、演奏家、批評家、音楽学者、プロデューサー…)がヨーロッパ中から詰めかける。楽譜・楽書・CD出版社の出店も設えられ、音楽祭というよりは、学会や見本市の雰囲気ただよう、やや特殊な場であるので、求められる音楽にもその影響があるのかもしれない。トレンドに合わせ、作曲家がその作風を一変させる例も珍しくない。

以前、あるシンポジウムで、高名なフランスの音楽学者が、「20世紀の終盤に至るまで、少なくともドイツやフランスの作曲家たちにとっては『未知の音楽語法を生み出す』ことが至上課題であり、評価もその点に追随した」と話していたが、こうした認識が決して専門家だけのものではないことを実感したのは、2年前、コレージュ・ド・フランスの招聘でロラン・バルトの生誕100年記念シンポジウムにて講演をした時だった。
バルトの思想に影響を受けた自作についての質疑応答の折、最前列に座っていた文学研究者らしき人物が手を挙げ、「あなたの音楽に、私は前衛性を感じなかったのですが、あなたはそのあたりをどう考えて創作していますか?」と質問した。
「並行宇宙」のような概念を挙げるまでもなく、録音・録画再生技術が一般化した時から、時空間の混在は物理的に提示されており、YouTubeが体現するように、ジャンルや時代、場所を問わず、雑多なものが区別なく同等に誰の目前にも存在している現代、「『前衛』という概念そのものが、時間が一方向に線状に流れているという前提に基づく限定的なものだと思う。私の作曲は、私自身がどのように世界(社会、自然、環境、人間など)をとらえているかを音楽上のしくみに置き換えたもので、必ずしも『前衛性』の追求にはつながらないが、それが目的でもない」旨の回答をしたと記憶している。実際、私に「前衛」たる音楽語法や技法を生み出すような才はないし、だからこそかもしれないが、私が求めているのは「前衛」の如何にかかわらず、音楽を介して何かが心にひっかかるような感覚や時間を他者と共有することだ。そのためには「前衛性」よりも、むしろ既存の響きのもつ含意を活用するほうが有効だと思っている。前回のこのコラムで音楽上の「コスプレ」について触れたが、古いものを焼き直すのでも、なきものとするのでもなく、既存要素の組み合わせによって新しい何か(湯浅譲二氏のおっしゃる「未聴感」?)が生み出されることもあるはずだ。

そうした考えのもとに、《Têtes》では、古今東西、普遍的な主題のひとつである「アイデンティティの問題」を喚起しようと試み、「顔」を失うテキストを、「連作歌曲」的な形式の中で、落語、朗読、演劇、歌曲、ラップと、さまざまな発話スタイルに乗せたわけなのだが、ドイツの現代音楽祭の文脈では全くトレンディではない「場違い感」はなはだしいこの作品に関し、今までになく多くの反響を得たことに驚いている。結局のところ、人は音楽に何を求めるのだろうか。

作曲者としての私自身、今年書いた2作品(《Têtes》と、2月にラジオ・フランスの「プレザンス音楽祭」で初演された弦楽四重奏曲《Brains》)によって、自分の書き慣れたスタイルや使い古した技法を更新できたことが思いのほかうれしく、「音楽界」や「芸術運動」などの「全体」よりも、自己の中で「前衛性」を持つことの意義を実感した。
ドナウエッシンゲン現代音楽祭ダイジェスト動画[2017年10月22日(日)]

 

★公演情報

望月 京《Têtes》
台本:ドミニク・ケレン(一部、小泉八雲著「怪談」に基づく)
演出:フレデリック・タントゥリエ
演奏:ポール=アレクサンドル・デュボワ(声)、エノ・ポッペ指揮MusikFabrik
SWR(南西ドイツ放送局)委嘱作品
2017年11月19日 WDR(西ドイツ放送局) 、ケルン
2017年11月23日 ムジークヘボウ、アムステルダム

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望月京(Misato Mochizuki)
1969年東京生まれ。東京芸術大学大学院およびパリ国立高等音楽院作曲科、楽曲分析科修了。1996~97年IRCAM研究員。国内外の多数の放送局、管弦楽団、劇場、音楽祭などから委嘱を得て、オペラ《パン屋大襲撃》、オーケストラ作品(東京フィルハーモニー創立100周年記念作品《むすび》、ブザンソン国際指揮者コンクール課題曲《むすびII》…)、無声映画のための音楽(溝口健二監督「瀧の白糸」、マン・レイ監督「理性への帰還」)など60余曲をこれまでに作曲。作品はBreitkopf & Härtel社より出版、ザルツブルク音楽祭、ウィーン・モデルン、ベルリン・ムジークビエンナーレ、ヴェネツィア・ビエンナーレ、リンカーンセンター・フェスティバル、サイトウ・キネン・フェスティバル(松本) といった音楽祭等で初演/再演される。パリの秋芸術祭、アルス・ムジカ音楽祭(ブリュッセル)、アムステルダム・ムジークヘボウ、コロンビア大学ミラーシアター、サントリーホールなどでは、オーケストラやアンサンブル作品による個展が開催された。欧州各地で作曲講師を務める一方(ダルムシュタット国際夏季現代音楽講習会、ロワイヨモン国際作曲セミナー、パリ・エコール・ノルマル音楽院、アムステルダム音楽院…)、一般聴講者を対象とした講演(コレージュ・ド・フランス、コロンビア大学、ウィーン芸術写真学校…)や執筆(読売新聞連載「音楽季評」2008〜2015、 日本経済新聞「現代音楽入門講座」、新潮社「考える人」、講談社「群像」…)にも定評がある。芸術選奨文部科学大臣新人賞、尾高賞、出光音楽賞、芥川作曲賞、ユネスコ国際作曲家会議グランプリ、ハイデルベルク女性芸術家賞などを受賞。明治学院大学教授。