アリーナ・イブラギモヴァ&セドリック・ティベルギアン《シューベルトの夕べ》|藤原聡

アリーナ・イブラギモヴァ&セドリック・ティベルギアン《シューベルトの夕べ》

2017年10月17日 王子ホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 藤本史昭/写真提供:王子ホール

<演奏>
アリーナ・イブラギモヴァ(vn)
セドリック・ティベルギアン(pf)

<曲目>
シューベルト:
ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調 D385
ヴァイオリン・ソナタ第4番 イ長調 D574『デュオ』
ヴァイオリン・ソナタ第1番 ニ長調 D384
幻想曲 ハ長調 D934
(アンコール)
ソナタ第4番 アンダンティーノ

 

いかにもイブラギモヴァ、そしてティベルギアンらしいプログラミングだ。ヴァイオリン・リサイタルの中の1曲にシューベルトを組み込むことはあるが(それとてさほど多くはない)、ましてや一晩のプログラム全てをシューベルトのヴァイオリン曲で固めるというリサイタルは相当珍しいのではないか。周知の通り、交響曲でもピアノ・ソナタでも弦楽四重奏曲でも、これらの作品で番号の若い曲は習作的な色彩が濃く、その音楽は後期作品と比較してかなり素朴かつシンプルである。これらをまとめて演奏するということは聴衆を退屈させるリスクが大きいのではなかろうか。ということは、逆にこれはかなり挑戦的な姿勢の表れと捉えるべきだろう。

そのようなことを考えながら席に着いての1曲目、ソナタ第2番から素晴らしい。最初こそティベルギアンのピアノ共々、若干の音の硬さを感じさせたが(これはこのホールの音響特性もあろう。恐らく「鳴らし方」を会得しないとキンキンとドライな音になってしまう)イブラギモヴァのボウイングはあくまでしなやかで、まるで弓が弦に吸い付いているかのようだ。ムラが全くない。しかしその表情と発音は多彩で、柔らかな美音からエッジの利いた強音まで自在の極み。神の右手か(大げさ?)。その上技巧を披瀝している、という印象がまるでない。であるから、平凡な奏者の手にかかれば恐らくは退屈するのでは…と容易に想像されるこの初期作品に美しさと楽しさしか感じない。ピアニストとの呼吸の合い方も抜群。

2曲目の『デュオ』は、当日のプログラムにあるようにベートーヴェンの影響が感じられ、先の第2番と比較してより劇性に富む曲想であるが、ここでのイブラギモヴァとティベルギアンは明確にそれを意識しているのだろう、音はより重量感が増し、フレーズ間の表現のコントラストも強い。例えば第2楽章のスケルツォ演奏などは一般的なイメージから言えばシューベルトにしてはヒロイック過ぎないか、と思わなくもないが、この面白さは無類。

休憩後はアンダンテでの歌い口に魅せられた第1番を経て、1816年、作曲者19歳の年にまとめて書かれたこれまでの3曲から12年後――つまり1828年、シューベルト死の年――に作曲された幻想曲の冒頭の音が鳴り始めると、あの至高の弦楽五重奏曲や弦楽四重奏曲第15番、ピアノ・ソナタ第21番と同じく無時間的な悠久の世界が眼前に広がり、ここに及んで先の3曲との深みの違いに改めて驚嘆するしかない。12年前からここまで。どれほど遠くまでシューベルトはやって来てしまったのか。そしてここでのイブラギモヴァとティベルギアンは、先の3曲と極端にアプローチを変えたりはせず、これ見よがしな深遠さを演出することなく息の長い歌をぶれることなく静かに、かつ徹底的に歌い切る。大げさなロマン的な身振りとは無縁だが、それゆえにシューベルトの本来的な抒情性が素直に表出されて来る。それは本当に美しい。いかにも深遠に感じるのは曲が実際に深遠だからなのだが、それは演奏者が外側から付け足した演出によるものではなく、曲の本来的な資質を等身大でレアリゼした結果であり、そしてそれが出来るという時点でイブラギモヴァとティベルギアンは既にして大家の域に入りつつある。それなりに親しんではいたもののさほど感じてもいなかったシューベルトのヴァイオリン・ソナタの魅力に気付かせてくれたこの2人に感謝あるのみ。アンコールは第4番のアンダンティーノを再度。