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オルガンの未来へIII |齋藤俊夫

オルガンの未来へIII~西洋から日本への架け橋

2017年2月18日 ミューザ川崎シンフォニーホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 青柳聡/写真提供:ミューザ川崎シンフォニーホール

<演奏>
大木麻理

<企画>
松居直美

<曲目>
J.S.バッハ:『パッサカリア』、ハ短調、BWV582
G.A.フレスコバルディ:『クレドの後の半音階的リチェルカーレ』
G.リゲティ:『リチェルカーレ~G.フレスコバルディへのオマージュ』
G.リゲティ:『ヴォルミーナ』
Z.サットマリー:『バッハへのオマージュ』
伊左治直:『橋を架ける者』(ポジティブ・オルガンによる演奏)
松下倫士:『モーツァルトの主題によるパラフレーズ』(世界初演)
松下倫士:『悲歌~能「道成寺」の物語による幻想曲~』(ミューザ川崎シンフォニーホール委嘱作品・世界初演)

 

筆者は普段オルガンの演奏を生で聴くことなどあまりないというのもあろうが、最初のJ.S.バッハのパッサカリアの冒頭の和音でいきなり圧倒された。オルガンの音とはかくも迫力に満ちたものであったのかと。さらにパッサカリアとフーガの一にして全、全にして一とでもいうべき堅固な形式に宿るバッハのとてつもない音楽的才能にもまた圧倒された。パッサカリアとフーガという制約の強い形式で、かくも多様な、だが全体として統一された音楽がありえるものかと。

次のフレスコバルディは一転して穏やかな音楽であったが、しかし半音階的な主題に宿る音楽的霊性とでもいうべきものに強い感銘を受けた。

このフレスコバルディのパロディでありオマージュであるというリゲティの『リチェルカーレ』は12音音列の主題によるカノン。いかにもリゲティらしいユーモアとアイロニーが同居した小品。

そして今回の目玉の一つともいうべきリゲティ『ヴォルミーナ』、クラスターによるとんでもない爆音にはじまり、そのクラスターの層が厚くなったり薄くなったりして全体の起伏が形作られる。音高が低すぎて風のような音が聴こえるだけのところもあれば、あまりにも激しすぎて「何が何だか分からないがとにかくスゴい」としか言えないようなところもあり、改めて恐るべき怪作・快作であることを確認できた。生でこの曲が聴けたことに感謝。

サットマリーはリゲティの弟子筋にあたるということもあろうが、師匠ゆずりの一癖も二癖もある奇っ怪な音楽。片足で飛び跳ねるような奇妙なリズムに始まり、フォルテとピアノの音量による楽想を行き来するが、どこか不穏な気配が消えない。終りも冒頭のような奇妙なリズムによる同音連打で締められるが、いや、これは奇曲であった。だが、オルガンでしかありえない音楽として立派な作品である。

後半、伊左治作品はポジティブ・オルガンのための作品ということもあって、楽器から聴こえる音に音色的違いがなく、どれが主旋律でどれが伴奏や対旋律なのかということがわからなかった。このことも含めて中世(作者の言としては14~15世紀)の音楽を模倣した作品だったのかもしれないが、タイトルの『橋を架ける者』、すなわち洋の東西、歴史の古今に橋を架ける者としてのオルガンとオルガニストたり得ているかと問われるといささか返答に窮する音楽であった。

最後の松下2作品は、言うなれば陽のポストモダニズムと陰のポストモダニズムとして1対の作品となっていた。このポストモダニズムとは、中世、ルネサンス、バロックからモーツァルトを経過して現代(ポピュラー音楽含む)までの楽想を並列し自在にそれを組み合わせる作曲法を指す。実に現代的かつ軽やかな音楽理念だと言えよう。

陽のポストモダン音楽、『モーツァルト~』では序盤こそやや重い響きなものの、中盤ではメシアンを思わせる幻想的なオルガンの響きが鳴らされ、最後はモーツァルトの引用を多用した快活な曲想で終わる。
陰のポストモダン音楽、『悲歌』で能の様式美を取り入れて前曲とは一変して鬱勃たるパトスに満ちた不気味な音楽世界が広がる。オルガンの音響によって大蛇となった狂女が現前しその激情と怨念に心底恐怖を感じさせられた。
しかしこの2曲とも、現代音楽のいわば教条的な側面とは無縁で、自由に音楽を創造しているのが実に楽しく、痛快に感じた。松下のこの仕事は「西洋から日本への架け橋」「日本からどのような独自性を持って世界に発信出来るか、その可能性を(略)探り、新しいものを生み出したい」(チラシより引用)という今回の演奏会のコンセプトに正面から応えた、現代日本オルガン音楽の成果として記憶されるべきであろう。