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大井浩明POC《先駆者たち》#29、#30、#31|齋藤俊夫

大井浩明POC[Portraits of Composers]
#29:バルトーク、#30:ストラヴィンスキー、#31:ソラブジ

#29/2016年12月23日、#30/2017年1月22日、#31/2月19日 松涛サロン
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)

<演奏>
ピアノ:大井浩明

<曲目>
#29(東野作品以外全てベラ・バルトーク作)
『ラプソディ』Op.1 Sz.26(1904)
『14のバガテル』 Op.6 Sz.38(1908)
東野珠実『星筺IV』(2016、委嘱新作・世界初演)
『アレグロ・バルバロ』 Sz.49(1911)
『3つの練習曲』 Op.18 Sz.72(1918)
『舞踏組曲』 Sz.77(1925)
『ピアノ・ソナタ』Sz.80(1926)
『戸外にて』 Sz.81(1918)
『弦楽四重奏曲第4番』 Sz.91(1928/2016)(米沢典剛によるピアノ独奏版・世界初演)

#30(大蔵作品以外全てイーゴリ・ストラヴィンスキー作)
『ピアノソナタ 嬰ヘ短調』(1903/04)(日本初演)
『4つのエチュード』 Op.7(1908)
『ペトルーシュカからの3楽章』(1911/21)
『交響詩《夜鶯の歌》』(1917)(作曲者による独奏版、東京初演)
大倉雅彦『where is my』(2016)(委嘱新作・世界初演)
『11楽器のラグタイム』(1917/18)(作曲者による独奏版)
『《兵士の物語》による大組曲』(1918)(作曲者による独奏版、日本初演)
『ピアノ・ラグ・ミュージック』(1919)
『管楽器のシンフォニー集――C.ドビュッシーの思い出に』(1920)(アルトゥール・ルリエと作曲者による独奏版、東京初演)
『コンチェルティーノ』(1920)(アルトゥール・ルリエによるピアノ独奏版、日本初演)
『八重奏曲』(1923)(アルトゥール・ルリエによるピアノ独奏版、日本初演)
『ピアノ・ソナタ』(1924)
『イ調のセレナード』(1925)
『タンゴ』(1940)
『仔象のためのサーカス・ポルカ』(1942)

#31(古川作品以外すべてカイホスルー・ソラブジ作品)
古川聖『ノベレッテ第1番「上と下 Oben und Unten」』(2017)(委嘱新作・世界初演)
『オプス・クラウィケンバリスティクム(鍵盤楽器の始源に捧げて)』(1930)第1部
I.入祭唱
II.コラール前奏曲
III.第一フーガ(4声による)
IV.ファンタジア
V.第二フーガ(二重フーガ)
古川聖『ノベレッテ第2番「音階 Tonleiter」』(2017)
『オプス・クラウィケンバリスティクム』第2部
VI.第一間奏曲(主題と49の変奏)
VII.第一カデンツァ
VIII.第三フーガ
古川聖『ノベレッテ第3番「エッシャーへのオマージュ Hommage für Escher」』(2017)
『オプス・クラウィケンバリスティクム』第3部
IX.第二間奏曲
(ここまでで演奏会場の使用時限が来たため終演)

 

大井浩明POC第6期、バルトーク、ストラヴィンスキー、ソラブジの3回の個展を1回の批評でまとめて取り上げる。
まずはバルトーク、その原始主義の音楽と大井の攻撃型演奏法がいかなる火花を散らせるかと期待十分で臨んだが、その期待がかなえられつつ、大井はさらなる高みへと昇っていた。たしかに『アレグロ・バルバロ』『舞踏組曲』のような原始主義における大井の強靭な打鍵はそれだけでもたまらなくエキサイトさせられるものであったが、大井のアナリーゼ能力の高さは従来のバルトーク=原始主義・民族主義的作曲家という通説を打ち破るに十分であった。
バルトークは、調性音楽がヴァーグナーから印象派へ、そして無調へと移行(進歩とは言えないだろう)していく過程を一つの普遍命題として受け取って作品に反映させていたのだ。作品番号1番や作品番号6番ではバルトーク節とでも言える民族主義的な作品の中に完全に印象派風の曲もあれば、ほぼ無調と言える曲も混在し、彼が音楽の普遍命題としての調性の崩壊の中で道を探していたことがわかった。
そして、大井によるバルトークが一番輝いたのは、今回の演奏会では最も後期に書かれた『ピアノ・ソナタ』Sz.80であった。ほぼ無調に聴こえてくる曲想での鋼鉄の不協和音に始まり、やはり調性があいまいだが不思議に静かな第2楽章を経て、ピアノの弦がはじけ飛ぶのではないかと恐れてしまうほどの激しい終曲の第3楽章、恐るべきバルトーク、恐るべき大井浩明。

次のストラヴィンスキーは、作品番号がまだ付けられていない『ピアノソナタ』の完全にチャイコフスキー風の音楽から、『4つのエチュード』で印象派に至るまではバルトークの調性から無調への移行と同期している。だが、ストラヴィンスキーは無調を音楽の普遍的な姿とは捉えなかった。彼にとっては、調性音楽は完全に彼の個人様式としてあるのであり、調性から無調への移行を音楽上の唯一絶対の必然とは捉えなかったのであろう。
そして彼の調性音楽は「新古典主義」という形で花開いた。だがこの「新古典主義」はかつての「古典主義」のような全体的な均整を持たない。あくまで1曲1曲がそれぞれに独自の形式を持った作品群であり、今回の交響詩『夜鶯の歌』以降の彼の作品は彼の自由闊達な才能のひらめきと、ひらめきに頼るがゆえに個人様式の域を出られないという逆説を示していた。大井の才能はストラヴィンスキーの音楽の超時代性を示しつつ、それがストラヴィンスキーのためだけの閉じた様式であることをはっきりとしめしてくれた。

そしてPOC今シーズン最後のソラブジ『オプス・クラウィケンバリスティクム』全曲演奏会であるが、17時に開演して、22時に会場の使用時限が来てしまい第3部の半分までしか演奏できなかったという、ある種求道的な、荒行とでも言うべき異業を達成(未達成?)してくれた。付き合う我々聴衆もよほどの好き者であるが、演奏する大井の気力体力には恐れ入る。
バルトーク、ストラヴィンスキー、と調性から無調への移行の有無を辿った見地からすると、ソラブジの音楽は調性から無調へと至るその過程を無視した、完全に個人様式の極北で繰り広げられる超絶技巧曲だったと言えよう。形式としてはバロックのコラール、フーガ、パッサカリアなどが選ばれているものの、聴こえてくるのはひたすらに超絶技巧、爆発、終わったと思っても終わらないフーガ(一つのフーガが終わったと思うと次のフーガがまた始まってしまう)の繰り返しであった。
シュトックハウゼンのクラヴィアシュトゥッケを先取りしたかのような、秩序があるのか(一応フーガやパッサカリアの形式は耳で追うことができた)調性もあるのかもわからない、巨大化しすぎて滅びの道を歩むしかなかった恐竜的作品。独、仏、伊、露、英どの国の様式とも違う音楽。5時間の演奏を聴いた率直な感想としては「スゴすぎる」としか言いようがない。こんなとんでもない連作を書いた作曲家、それを演奏しようとする(完全には至らなかったが)ピアニストがいる、それだけでも日本現代音楽の現在のシーンの面白さは伝わるだろう。