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長岡京室内アンサンブル|能登原由美   

長岡京室内アンサンブル 

2017226日 京都府民ホール アルティ
Reviewed by 能登原由美( Yumi Notohara
写真提供:長岡京室内アンサンブル/撮影日225日@いずみホール

<演奏>
長岡京室内アンサンブル

<曲目>
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第11番へ短調「セリオーソ」Op. 95第1楽章
モーツァルト:カッサシオント長調K. 63
メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲ニ短調
モーツァルト:セレナード第13番ト長調「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」K. 525

 

指揮者を「シェフ」になぞらえ、プログラミングから楽曲の仕上げ方まで料理に見立てて述べることは、今やすっかりお馴染みとなった。では、指揮者を置かない楽団の場合はどうだろう。包丁を握る者全てがシェフと言えるのかもしれない。だが、味覚や好みは十人十色。出来上がった料理をテーブルに並べて客をもてなすまでには、相当のチームワークが必要なはず。とはいえ、プロセスなど知る由もない客にとっては出来上がったものだけが全てである。美味しくなければ意味がない。

京都を本拠地にして活動を続ける長岡京室内アンサンブル。その結成20周年を記念する公演を聴いた。指揮に頼らず、各自が耳を研ぎ澄まし互いの音を聴きあうことで音楽をつくってきたという。「長岡京」というローカルな名前を掲げながら、精力的なコンサート活動に8枚のCDをリリースと、20年もの間走り続けてきたことにまずは賛辞を送りたい。

もちろん、指揮者は置かずともシェフの役割に当たる人物はいるようだ。音楽監督で楽団の創設者でもあるヴァイオリニストの森悠子である。指揮者を置かないこと、メンバーを固定しないこと、後進の育成をするとともに世界に発信できる音楽作りを行うことなどの確固とした方針は、 彼女が20年前の結成時に掲げたものというが、それが今なお強く息づいていることが感じられた。

その上でなお賞賛したいのは、こうした追求の成果が確実に一つの固有の音楽スタイルとなって現れていたことである。なによりもその清澄な音色と、淀みなく紡ぎ出されるフレーズの軽やかな流れ。とりわけ2曲のモーツァルト、《カッサシオント長調K. 63》と「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」で知られる《セレナード第13番ト長調K. 525》では、この日の小春日和の陽気と相まって、ふわりと吹き抜ける春風のイメージが何度も頭の中をよぎった。実際、彼らの音楽は水や風の流れと形容されてその魅力の虜になっている人も多いようだが、こうした固有のスタイルをもつ団体は、日本では非常に珍しいであろう。

白眉はメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。いや、あの有名な「ホ短調」の協奏曲ではない。メンデルスゾーンが僅か13歳の時に作曲したとされる《ヴァイオリン協奏曲ニ短調》である。その存在は、20世紀半ばにメニューインによって発見されるまで世に知られることがなかったと言われるものだ。「ホ短調」協奏曲のような美麗さや重量感はないが、激しさと優艶な憂いを秘めた魅惑的なフレーズが随所に溢れる。 その構築力をみても、彼が早熟の天才であったことが如実にわかる。

その演奏では、特に第三楽章でこのアンサンブル特有の良さが現れていたように思う。ソロとトゥッティとの対比や微妙なテンポの揺れ、ニュアンスの変化は圧巻だったが、これはソリスト(高木和弘)とともに奏者全員の呼吸が一致しなければ決してなし得ないものだ。しかもその流れには迷いがない。シンプルな譜面から楽曲の面白さを引き出すために、どれだけの言葉が交わされ、音が鳴らされたことだろう。もちろん、 そうしたプロセスを差し置いたとしても、十分聴きごたえのある演奏であった。

敢えて難点を挙げるとすれば、奏者が互いの音に耳を澄まし、それとの調和を意識しすぎるあまりに、自らの音楽の発露を抑えすぎているのではないかと思われることだ。無論、ソロではなくアンサンブルであるから調和を重視するのは当然であろう。けれども、オーケストラに比べると人数もはるかに少ないだけに、各奏者の「声」がもっと聞こえる瞬間があっても良いのではないかとも感じた。あるいは、これは選曲にもよるのかもしれない。これから新しいステージをどのように作っていくのか、見守っていきたい楽団であることは間違いない。