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セドリック・ペシャ《ゴルトベルク変奏曲》|丘山万里子

トリフォニーホール《ゴルトベルク変奏曲》2017
セドリック・ペシャ ピアノ・リサイタル

2017年2月17日 すみだトリフォニーホール
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 三浦興一/写真提供:すみだトリフォニーホール

<曲目>
フレスコバルディ:パッサカリアによる100のパルティータ
(「トッカータ集 第1巻」より)
ウェーベルン:ピアノのための変奏曲 op.27
ブラームス:主題と変奏 ニ短調 op.18b、創作主題による変奏曲 ニ長調 op.21-1
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J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV.988

 

トリフォニーホールの名物企画《ゴルトベルク変奏曲》も今年で10回を数える。今回はスイスの気鋭ピアニスト、セドリック・ペシャ。レオン・フライシャー、メナヘム・プレスラー、アンドレアス・シュタイアー、フー・ツォンらに学んだ、というだけで、どんなピアノかワクワクするではないか。
リピートなし、CDでは41分くらいで弾きあげている。私は演奏時間を測るようなことはしないが、確かに、冒頭のアリアからの流れに身を委ねていると、結びのアリアまでが、あれ、もう?と思えるくらい。

でも、その前に、前半のこと(曲間休みなし、拍手も控えよ、との案内あり)。
これがめっぽう面白く魅力的で、知的で、すっかり感心してしまったのだ。
後半の『ゴルトベルク変奏曲』に照応するように、4作全て変奏曲。
出てきたペシャ、キイに手を置き、しばらく静止。最初の1音の響きのイメージを思い描くみたいに。と、フレスコバルディのモティーフが優美に流れ出す。17世紀の雅な音と技法が、絶妙のペダリングとタッチの多彩で万華鏡のように繰り広げられる。モダンピアノとは思えないひなびた響も時折混じって魅力的。

次がウェーベルン。ウェットだ。リリシズムの極致。雨の雫が虹色に輝いて、ぽつ、ぽつ、落ちてゆく。ぽたり、と滲むところもあって、心にじわじわしみてくる感じ。54小節のぽつ、と、ぽたり、のない交ぜで全身が耳になる、と、カンヴァスに絵の具を礫のように投げつける22小節の鋭利な第2楽章が来る。シュッと切り裂かれるカンヴァス、とりどりの音の礫。その切り口から青白い抒情が吹き上がる。第3楽章66小節は次々変貌する音シーンに、あ、そこで静止、と、空中で消えてゆく音を手のひらで押しとどめたり、すいっとすくい取ったりの仕草をするから、なんだか音の魔術師を見ているよう。終部、単音と和音の組み合わせ、その響かせ方、拡散と凝固の行き来が広大無辺の宇宙を広げて見せた。

ブラームスは打って変わって歌う、歌う。僕らの時代は歌えたんだ、声高らかに。甘く、パッショネイトに。そこからウェーベルンまでの距離はどれくらい?いや、ウェーベルンの禁欲にも彼の歌がある、とペシャはそう弾いたし、翻ってブラームスの歌には一種の挽歌の色がある(喪失の予感)、と私には聴こえた。

これが前半。ペシャはバロック、ロマン派、現代の変奏を見事にひとつながりにして、「美」の心模様を濃やかに描き出した。これで今夜は十分、と思ったくらい。

では、後半の『ゴルトベルク変奏曲』は?
冒頭に記したように、速い。素敵に風通しが良い。おそらく、と前半を聴いて思った通り、彼はアリアと30の変奏に、前半の音楽史を全部仕込んでまとめあげた。というより、バッハにはやはり全てがある、ということなんだろう。
速さ、といえば、第5変奏の急流、第14変奏の急斜面を転がり落ちてゆくような回転運動、第17変奏のはしっこい疾走、第20変奏の光の粒子が飛び散るかのスピード感、第23変奏の駆け巡る上下行の音のしぶき、とまあ、鏡のごとき湖面を快速艇で突っ走るような快感が充ち満ちる。この間に、いろいろな趣向が挟まれて、第15変奏では急に日が陰ってうっすら寒いモノローグを聴かせるし、第21変奏はチェンバロ風な響き、第25変奏の半音階進行のつぶやきにはウェーベルンの色が施され。これらを彼はほとんどピアニシモからせいぜいメゾフォルテまでの音量で弾いた。
フレスコバルディの典雅、ブラームスのセンチメント、ウェーベルンの抒情がそこここに散りばめられ、最後に圧倒的なクライマックス(ここはパワー全開のフォルテシモ)を築いたのち、アリアに着地するそのアリアの出だしは、細心に、でもさりげなく。私はうっとりと聴き入った。
最後の1音の残光が消えてもペシャはキイに手を置いたまま動かない。しわぶきひとつない静寂。20秒くらい。ふっと力を抜いたペシャに合わせて拍手が起こる。当夜の演奏がどんなだったか、これでお分り頂けよう。