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アントワン・タメスティ ヴィオラ|大河内文恵

%e3%82%bf%e3%83%a1%e3%82%b9%e3%83%86%e3%82%a3アントワン・タメスティ ヴィオラ

2016年121日 トッパンホール
Reviewed by 大河内文恵(Fumie Okouchi)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
アントワン・タメスティ(ヴィオラ)

<曲目>
J. S. バッハ:無伴奏チェロ組曲第3番 ハ長調 BWV1009
リゲティ:無伴奏ヴィオラ・ソナタ

(休憩)

J. S. バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調 BWV1007
      無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番 ニ短調 BWV1004

 

ヴィオラと聞いてどんな音をイメージしますか?
ヴァイオリンほどの華やかさはないけれど、チェロほど深くもない。オーケストラの弦楽器群の真ん中で音楽を内側から支える地味な職人。そういったイメージが完全に払拭された演奏会だった。

ヴァイオリンでもチェロでもない、まぎれもなくヴィオラでしか表現しえない世界があると実感したのはリゲティの曲が始まった直後だった。今回のプログラムで唯一、最初からヴィオラのために書かれた曲。わかりきっていたはずのことが感覚として腑に落ちた。

タメスティはこの曲のCD録音をしているが、実際に生演奏で聴くと、さらにその魅力が強く感じられた。楽譜を眺めると、特殊奏法が満載で強弱をはじめ曲想の指示も多く、それを音として実現させるだけでも相当大変なはずだが、そんなことは微塵も感じられない。むしろ第1楽章の曲の終わりかたの美しさや、第2楽章の聴きごたえの充実ぶりが際立っていた。さらに特筆すべきは第4楽章で、CDではほとんどわからないのだが、弱音器をつけての演奏は、ただ単に音が小さくなっているというのではなく、どこか遠くで弾いているのが聴こえてくる、あるいは、自分が楽器の内部に入り込んで聴いているという錯覚を起こすような響きがするのだ。非常に不思議な体験であった。第4楽章の最後は「すぐに次へ」と指示があるため、タメスティは取り付けていた弱音器を放り投げて、すぐさま第5楽章へ。つづく第6楽章では、実際の音はまったく同じではないのだが、持続低音がずっと続いているように聴こえた。全体として、倍音が豊かで、ホールの響きの良さと相まって、充実した音楽を堪能することができた。

一方、チェロやヴァイオリンのために書かれた作品では、本来の楽器とは一味違った演奏が聴かれた。『無伴奏チェロ組曲第3番』のサラバンドの重音の軽さと弱音の透き通るような美しさ、ブレーでのノリの良さはチェロの演奏ではここまでのものは聴かれない。『無伴奏チェロ組曲1番』でもサラバンドの秀逸さは群を抜いていた。聴きながらふと、そういえば、バロック・チェロの演奏がこれに少し近いのではないかと気づいた。ひょっとすると、タメスティの演奏は本来の楽器であるチェロでの演奏よりも、バッハがこの曲を作曲した時代の演奏の本質に近いのかもしれない。

最後に演奏された『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番』は、バッハの無伴奏ヴァイオリン作品中、もっとも有名なもので数限りなく演奏されている。しかし、サラバンドのまるでマラン・マレのガンバの曲を聴いているかのような心が穏やかになっていく感じ、ジーグのゼクエンツの揺れの心地よさは、タメスティ独特のものであった。圧巻だったのは最後のシャコンヌ。ヴァイオリンで聴いたときの、あのヒリヒリとしたシャコンヌはここにはない。ヴァイオリンによるシャコンヌが緊張感と切迫感をどこまでも突きつめるものであるとすれば、ヴィオラのシャコンヌはどれだけ豊かさと奥深さを盛り込めるかを追求したものであるといえよう。この曲の新たな地平を拓いた演奏は、さながら聴き手の心をトロトロに融かしてしまう不思議な魔力を湛えていた。じっくりと温まった心を抱えて家路につく幸福感は何物にも代えがたいものであった。

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