トッパンホール15周年 室内楽フェスティバル|藤堂清
トッパンホール15周年 室内楽フェスティバル
2016年5月15~22日 トッパンホール
Reviewed by 藤堂 清(Kiyoshi Tohdoh)
Photos by 大窪道治(写真提供:トッパンホール)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
♪トッパンホール15周年 室内楽フェスティバルI
2016年5月15日 トッパンホール
<演奏>
クリスティアン・テツラフ(ヴァイオリン)
ターニャ・テツラフ(チェロ)
ラルス・フォークト(ピアノ)
ユリアン・プレガルディエン(テノール)
秋 D945
深い悩み D876
わが心に D860
真夜中に D862
森の中で D834
春に D882
ヴィルデマンの丘で D884
あこがれ D879
流れの上で D943 (ターニャ・テツラフ:チェロ)
——————-(休憩)——————–
シューベルト:ピアノ三重奏曲第2番 変ホ長調 D929
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
♪トッパンホール15周年 室内楽フェスティバル III
2016年5月18日 トッパンホール
<演奏>
クリスティアン・テツラフ(ヴァイオリン)
レイチェル・ロバーツ(ヴィオラ)
ターニャ・テツラフ(チェロ)
ラルス・フォークト(ピアノ)
ユリアン・プレガルディエン(テノール)
<曲目>
ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調 Op.78 ≪雨の歌≫
シューマン:詩人の恋 Op.48 (詩:ハインリヒ・ハイネ)
——————-(休憩)——————–
ブラームス:ピアノ四重奏曲第2番 イ長調 Op.26
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
♪トッパンホール15周年 室内楽フェスティバル VI
2016年5月22日 トッパンホール
<演奏>
クリスティアン・テツラフ(ヴァイオリン)
日下紗矢子(ヴァイオリン)
鈴木 学(ヴィオラ)
ターニャ・テツラフ(チェロ)
マリー=エリザベート・ヘッカー(チェロ)
マーティン・ヘルムヘン(ピアノ)
ユリアン・プレガルディエン(テノール)
<曲目>
シューベルト:白鳥の歌 D957
——————-(休憩)——————–
シューベルト:弦楽五重奏曲ハ長調 D956
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
トッパンホールのオープン15年を祝う室内楽フェスティバル、クリスティアン・テツラフを中心とする内外の演奏家により6夜にわたり行われた。
プログラム全体は、シューベルトの晩年(といっても30歳前後)の作品から、シューマン、ブラームスを経て、シェーンベルク、ベルクの初期の作品に至る、1825年から1900年の間に作られた室内楽、歌曲を中心としたもの。「(ドイツ・)ロマン派」の室内楽作品を時代を追って俯瞰できる選曲といってよいだろう。
モーツァルトの《ピアノ四重奏曲 K478》、ヤナーチェクの《ヴァイオリン・ソナタ》といった、例外かと思える曲も入ってはいるが、モーツァルトのト短調のパッション、民族楽派のロマン性といった理由だったのだろうか?弦楽四重奏曲をはずしたことは、古典派での重要度との違いを考慮したためだろう。
私はこのフェスティバルのうち、第1夜、第3夜、第6夜の三回のコンサートを聴くことができた。
最初の二夜はラルス・フォークトが、最終日に当たる三夜目ではマーティン・ヘルムヘンがピアノを受け持った。全日聴いたわけではないので確信があるわけではないが、この二人のピアニストの表現方法の違いが、彼らの入ったアンサンブルを方向付けたように感じる。
三夜に共通するユリアン・プレガルディエンとの歌曲でも、この二人の違いがユリアン(父親と区別するために使わせていただく)の歌唱に影響を与えていた。
フォークトはピアノのダイナミック・レンジをせばめることなく、また曲の入りやテンポも自ら引っ張るように弾いた。ユリアンはそれに載り、全体の大きな枠組みはフォークトにまかせ、言葉の変化への対応を中心に歌を形作ることができた。彼らのこのアプローチは《詩人の恋》で見事にはまっていた。もともとピアノ・パートの役割の大きいこの歌曲集、フォークトの音の美しさも際立ち、その振幅に合わせるように歌うユリアンの歌も聞きごたえがあった。<ぼくは恨みはしない>で失恋のショックを歌い上げたあと、<花が、小さな花がわかってくれるなら>でのささやくような声の対比、最後の曲<むかしの、いまわしい歌草を>での想いを捨て去る決意(壮大な、といったら言いすぎ?)とそれに続く長い後奏の美しかったこと。
ヘルムヘンの場合は、歌手を立てるようなピアノで、良くいえば上品な演奏。その反面、歌の表情を積極的につくることはなく、歌手にまかせてしまう部分が多くなり、歌全体として少し平板な印象をうける。とくに《白鳥の歌》のハイネ歌曲—たとえば<もう一人の俺(影法師)>—-では、ピアノが全体の表情を作り上げるといった踏み込みが欲しかった。ユリアン、31歳という若さ、声の美しさは魅力であり、すでに自分の歌のつくり方を心得ている点評価できるが、ピアニストの表現をもコントロールするところまではできていない。あと数年は「プレガルディエン」という名前で苦労することもあるだろう。
器楽のみの室内楽は、ピアノ三重奏曲、ピアノ四重奏曲、弦楽五重奏曲、ヴァイオリン・ソナタなど、シューベルト、シューマン、ブラームス、シェーンベルク等の作品が、さまざまな演奏家の組み合わせでとりあげられた。
私の聴いた範囲でも出来栄えにはバラツキがあった。
ブラームスのヴァイオリン・ソナタ≪雨の歌≫は、テツラフとフォークトの二人による演奏。互いに相手を立てながら、独奏者として主張するところはしっかりと、旋律線や二つの楽器の絡み合いなど細部まで演奏者の目が行きとどいていた。
同じ日のブラームスの《ピアノ四重奏曲第2番》も、テツラフとフォークトが中心となるが、弦の中で、ヴィオラのレイチェル・ロバーツ、チェロのターニャ・テツラフとのバランスがよく、こちらも完成度の高いものであった。
一方、初日にとりあげられたシューベルトの《ピアノ三重奏曲第2番》は、スリリングではあったが、名演とはいいがたいものであった。原因はテツラフとフォークトの主導権争い。その受け渡しがうまくいけばよいのだが、両者ががんばる部分もあり、アンサンブルが崩壊しかねない状況となることもあった。極端な言い方をすれば、「三人のソリストが演奏」といったおもむき。三重奏としての精度を求めなければ、なかなか面白いものであった。
最終日のシューベルトの《弦楽五重奏曲ハ長調》では、ヴァイオリン二人の合奏、チェロどうしのやりとりは、一応機能していたのだが、それをつなぐヴィオラが役割を十分には果たせていなかった。
今回行われたようなソリストを集めて行う室内楽フェスティバル、ルガーノのアルゲリッチを中心としたものなどがあるが、日本で室内楽に特化したものとして、これほど集中して行われることは少ない。歌曲が入れられていることも特徴だろう。
このような取り組みが継続されていくことを期待し、トッパンホールの次の記念年、20周年を楽しみに待ちたい。