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能オペラNopera AOI |藤原聡

nopera

Concert Review

第3回 アート×アート×アート 〈能×現代音楽×ファッション〉
能オペラNopera AOI ~日本の伝統と最先端クリエーションとの出会い~

2015年12月14日 白寿ホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<出演>
青木涼子(能アーティスト)
池上英樹(打楽器)
斎藤和志(フルート)

<スタッフ>
山懸良和(ファッションデザイナー)

【第1部】
フェデリコ・ガルデッラ「風の声」for Noh voice and bass flute(2012)
ストラティス・ミナカキス「ApoploysⅡ ホメロスの時代の断片」for Noh voice,flute and percussion(2013)
ヴァソス・ニコラウ「マクベス5.1」for Noh voice,flute and percussion(2013)
<休憩>
トーク:馬場法子×山懸良和
【第2部】
馬場法子「Nopera AOI葵上」より(世界初演)

筆者は能の知識は皆無に等しい。一旦勇気を出して踏み込んでしまえば「理解する」には時間が掛かるにせよ、何かしらの刺激を与えられるのは必至だろうが…。しかし、ここに『能オペラ Nopera AOI』なる<能×現代音楽×ファッション>の融合を目指した極めて興味深いイヴェントが開催された。これは始まってみるまで全く見当の付かない、いわば「玉手箱」のようなもの。興味津々で、あるいは恐る恐る白寿ホールへと足を運ぶ。

当イヴェントのタイトルにもなっている『Nopera AOI葵上』は休憩を挟んだ後半の演目で、前半では気鋭の現代作曲家3人による能にインスパイアされた、あるいは能の様式を取り入れた作品が「上演」されたのだが、能アーティストの青木涼子(3曲とも青木の委嘱作品だ)、フルーティストの斎藤和志、打楽器の池上英樹の共演では、普通に吹けば美しく整って分節化された音が出るように作られているフルートが、もっぱら息の破裂音、あるいは楽器に急激に吹き込むことによるノイズを出すことにのみ奉仕させられる。こう言って良ければ、楽器が本来出すべき音が全く出されない。または、打楽器においてはジャンベ(のようなもの?)と大きいタンブリンは擦られる、指を交差させるトレモロ、バチで思い切り「ひっぱたかれ」、空間を切り裂くような鋭い音が虚空に放たれる。これらは西洋的な「美しい」音に慣れている耳に対して鋭く挑みかかってくるようだ。プログラムによれば、1曲目のフェデリコ・ガルデッラ『風の声』における謡の部分は世阿弥の『井筒』の最終部分を構成し直して用いており、2曲目のストラティス・ミナカキス『ApoploysⅡホメロス時代の破片』では「謡」のテクストはホメロスの『オデュッセイア』の11番目の本のネキュイアから取られ(古典ギリシャ語)、3曲目のヴァソス・ニコラウ『マクベス5.1』では文字通りシェイクスピアの『マクベス』(英語)が引かれているのだが、その意味内容と演奏及び能の所作との連関については筆者には理解の及ぶ所ではない(かなり「手強い」作品群である…)。しかし、明らかなのは一見水と油のような西洋楽器と能の発声・所作が本来的に「合わない」ものであるが故に「不調和の調和」とでも形容すべき不可思議なある種の一体感を獲得している点にこそ1番興味をひかれた。あるいはそれは錯覚なのか。根源的な問いを発する作品群、また見事な演奏であり演唱。

後半では、まず「Nopera AOI葵上」の作曲者である馬場法子と衣装を担当したファッションデザイナー山懸良和のトークに続き、件の作品の上演(今公演は抜粋。全曲初演はパリの日本文化会館でこの4月に行なわれる)。まずは山懸の手がけた青木の衣装がすこぶる面白い。能の『葵上』で着用する鱗文と油焔型の模様が織られたニットと、その上に羽織る表着は葵上の病床と六条御息所と光源氏の情事を象徴する布団が用いられており、そしてその表と裏に刺繍されているのは中森明菜などに似たアイドルで、それぞれ9つの顔の横にはデコレーションされた携帯電話(=デコ電)が付けられている。演目自体には使用されない能面を服に投影させ、また葵上で象徴的な六条御息所の「怨念」を「往年のアイドル」に重ねた、とのこと。携帯電話は1番現代的な小道具という意味合いで取り入れられたが(現代の恋愛には欠かせないアイテムだ)、この発信音は曲の一部にもなる(以上、当日はやや遠方の席で見えにくかったが、山懸氏のトークと「Fashionsnap.com News」の記事を引かせて頂いた。ちなみに山懸氏のインスタグラムにこの衣装の表と裏のよく分る写真がアップされている)。前述のように筆者は能の知識はお粗末なのだけれど、この現代流に換骨奪胎された『葵上』はとにかく面白い。『葵上』は光源氏の愛を失った女性の怒り、悲しみ、嫉妬を表した作品であって、これは言うまでもなく今も昔も変わらぬまさに「Same old story」だろう。能というある種の特異な様式は、歌舞伎もそうだけれど、その表現方法を時間を掛けて理解した「通人」にはこの上なく楽しめても、それ以外の人間には気軽に入って行きにくい面があるのは否めない。それを、このようにポップに、それこそ感覚的に楽しめるような形で見事に料理することによって能に対する興味を大いに喚起することが出来たように思う。他ならぬ筆者にしてからが、この『Nopera』全曲に接したい気にさせられたし、元の『葵上』をも観たいと思わせられている。当夜のあれやこれやを「お前は分ったのか?」と問われれば、恐らく「分っていない」。しかしとにもかくにも楽しめた上に刺激的であった。それだけは間違いない。

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