ロナルド・ブラウティハム~ワルトシュタインを弾く|大河内文恵
2019年5月15日 トッパンホール
Reviewed by 大河内文恵(Fumie Okouchi)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
ロナルド・ブラウティハム(フォルテピアノ)
<曲目>
ハイドン:ピアノ・ソナタ第49番(第59番) 変ホ長調 Hob.XVI-49
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第3番 ハ長調 Op. 2-3
~休憩~
ハイドン:ピアノ・ソナタ第52番(第62番) 変ホ長調 Hob.XVI-52
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第21番 ハ長調 Op. 53《ワルトシュタイン》
~アンコール~
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番ハ短調 Op. 13《悲愴》第2楽章 Adagio cantabile
ハイドンとベートーヴェンのソナタを2曲ずつ弾くという、一見、何の変哲もないプログラム。普段だったら見過ごしてしまうのだが、フォルテピアノだったらどうなるのだろう?という興味からトッパンホールへ足を運んでみた。
今回の使用楽器は1800年頃のワルターをモデルにマクナルティが製作したもので、作曲者とほぼ同時代のものである。フォルテピアノはチェンバロと違って、見た目も音も(モダンの)ピアノに近いために、知らず知らずのうちに(モダン)ピアノの音を想定しまうようで、音が鳴り始めたときにちょっとした違和感がいつもある。その違和感がなくなるまでの時間は楽器や奏者によってさまざまだが、今回はほんの一瞬でしかなかった。
が、今度は別の違和感がおそってきた。フォルテピアノにつきものの不全感がまったくないのだ。すべてが自然すぎる。録音では気づかないような多彩な音色とニュアンス。あっという間にブラウティハムの世界に惹き込まれた。
1曲目のハイドンのソナタ。ブラウティハムは楽譜に指示されているリピートはすべてその通りに繰り返す。こういった繰り返しは、オペラ・アリアなら繰り返すたびに技巧が凝らされ、別物のようになっていくのでむしろそれが愉しみとなるが、ピアノ・ソナタでは音色や表現はともかく、音やリズムの変更はおこなわれないので、「またか」と思ってしまうこともあるのだが、さきほどの音楽がもう一度聴けることが嬉しくてしかたがないという気持ちになったことに自分で驚いた。
次はベートーヴェンのOp.2-3。この曲が初期のソナタで子どもが弾くことが多いせいもあるが、ベートーヴェンのソナタというと、とかく重厚さとかバリバリ弾くというイメージが強調されがちだが、こんな繊細さがあったのかと目を開かれる思いがした。ハ長調で書かれたこのソナタでは、音が非常にクリアで、ほんの少し他の調に振れただけで音色が変わるので、移り変わりが明確になる。2楽章の低音を響かせるところでは、まるでオルガンの足鍵盤で弾いているかのような豊かな音がする。ただ音量が大きいだけではないのだ。3楽章の小粋さ、4楽章ではテーマでないところに魅力がたっぷり詰まっている。4つの楽章の構成の巧さにさらに感服。
後半の最初はハイドンのHob.XVI-52のソナタ。ここには我々が「ベートーヴェン」に求めるすべてがあった。雄大さ、音楽の推進力、スケールの大きさ。1楽章では一瞬音がなくなる、まるでゲネラルパウゼのような瞬間にハッとし、3楽章の連打の音の見事さに打ちのめされる。
最後は『ワルトシュタイン』。これまた重厚さで聞かせる曲のはずが、感じるのは優美さのみ。ワルトシュタインのイメージが一変した。2楽章はレチタティーヴォとアリアを聴いているかのよう。3楽章は絶頂期のロマン派の曲かと見紛う、絶品。
ベートーヴェンがここまで違う音楽に聞こえるのはなぜなのか、考えながら聴いていてふと気づいた。ハイドンを聴いている間に耳がリセットされているのだ。我々はどうしても現代の耳でベートーヴェンを聴いてしまう。だがハイドンのソナタで18世紀終わり頃の耳になったうえでベートーヴェンを聴くと、その先進性が体感できてしまう。プログラムノートで中村孝義氏は「我々人間を当時の時代の人間に戻すことはできないという事実」に我々は注意せねばならないと書いているが、その不可能を可能にしてしまったのだとしたら、空恐ろしいプログラムである。
アンコールの『悲愴』は、これまでの演奏すべてを包み込むような至福の時間。もう、ハイドンだろうがベートーヴェンだろうが、曲なんて何でもいい、もっと聴いていたい、この時間に浸っていたいと思う名残惜しさを抱えて帰路についた。
(2019/6/15)
追記:ハイドンのピアノ・ソナタには、括弧付きでランドン版の番号を入れた。現在最も普及している番号であることと、ブラウティハムが赤い表紙のウィーン原典版の楽譜(ランドン版)を使用していたことによるものである。