評論|「敗戦75年」の音楽文化(1)~1941年12月を振り返る~|戸ノ下達也
「敗戦75年」の音楽文化(1)~1941年12月を振り返る~
Japanese music culture 75 years after the defeat. Looking Back on December 1941~
Text by 戸ノ下達也(Tatsuya Tonoshita)
◆はじめに
2020年は、ポツダム宣言受諾・降伏文書調印から、75年の節目の年となる。2020年を目前にした今、特定機密保護法や集団的自衛権、安保法制に現れている政治のあり様、内閣総理大臣決裁で設置の「『日本の美』総合プロジェクト懇談会」と一体で進められた「ジャポニズム2018」、政治と文化の再考を迫る「あいちトリエンナーレ・表現の不自由展」など文化政策の現状に直面して、改めて戦時期の歴史を捉え直し、敗戦75年の意味を再考することの重さを実感する。このシリーズでは、戦時期の政治と文化の実像を俯瞰し、敗戦75年の意味を音楽文化に即して考えてみたい。
◆12月8日に思うこと
今年もまた、12月8日が巡ってきた。昨今のメディアの報道は、戦時期を扱うことがタブー、もしくは自由主義史観が正しい歴史認識かのような扱いが顕著だが、それでも8月15日の「終戦記念日」前後には、戦時期を検証し再考する番組や特集が組まれる「8月現象」が見られる。しかし、歴史に向き合い、その事実から社会を再考する観点から考えると、「終戦記念日」のみ注視するだけでよいのであろうか。この日をもって本当に「終戦」なのであろうか。南京など占領地での大虐殺や従軍慰安婦、皇民化教育など大日本帝国の占領地にもたらした惨禍、内外各地の空襲被害、原爆や沖縄戦の後遺症、歴史認識等々、ポツダム宣言受諾の玉音放送と降伏文書調印から74年が経過してもなお、解決されない戦争の傷痕が存在している。決して戦争は「終って」いない。
例えば、満洲事変のきっかけとなった柳条湖事件の起きた1931年9月18日、日中全面戦争化となった盧溝橋事件の起きた1937年7月7日、そして真珠湾攻撃の1941年12月8日。他にも歴史の転換点となった様々な「記念日」が存在している。それぞれの「記念日」を画期として戦争が拡大した。特に、アジア・太平洋地域へと戦線が一気に拡大するきっかけとなった1941年12月8日は、私たちにこの歴史を受け止め、再考する問題を突きつけている。何より真珠湾攻撃の勝利とその後の緒戦の躍進では、人々が自ら進んでその成果に歓喜し、熱狂した。この事実は、政府をして下記の談話を、奥村喜和男情報局次長が発表せざるを得ない状況を生み出していたことを端的に物語っている。
「大東亜戦争は、東亜新秩序建設の完遂まで続くので、その前途はまだ長いのであり、今までの勝利は序の口に過ぎず、国民は勝って兜の緒を締め戦勝に酔うことなく厳粛な喜びを国策への協力と実践とによって示し、さらに戦局の勝利に向って邁進せねばならぬ。その意味で、政府は、香港陥落等の場合でも、提灯行列、旗行列など戦争の前途を安易視するが如き行事は、一切行わざるよう希望する」(「お祭騒ぎはまだまだ」讀賣新聞1941年12月21日朝刊)
この現実は、ここ数年の日本国の政治や経済、文化のあり様を、人々が支持し共感を持って受け入れている「現状への同調」という雰囲気に通じる危うさがある。立法や行政が何を考え、どのような政治運営を行ない、何を目標としているのか、常に国民ひとり一人が意識し考えていかなければいけない。何より現在の政権与党が、最終目標としている日本国憲法改正の行き着く先に、どのような社会が待ち受けているか、という見通しを歴史に即して考えることは、今を生きる私達の責務である。
◆情報局の文化政策
音楽に関わる戦時期の文化政策は、日中戦争期までは、内務省によるレコード検閲、府県警察による舞踏場や興行統制に顕著なように「取締り」が主体だった。この姿勢が大きく転換するのが、1941年12月だった。
1936年7月に国内外の情報啓発宣伝やインテリジェンス機能の強化を目的に内閣情報委員会が発足し、1937年9月に対外情報蒐集の強化を目的に内閣情報部に改組され、さらに1940年12月に各省に分散していた情報啓発宣伝機能の一元化と文化統制の強化を目的として内閣情報部の拡充により情報局が発足し、文化政策も担うことになる(『戦前の情報機構要覧』)。情報局は、1941年12月12日に「戦時下国民娯楽ニ関スル緊急措置ニ関スル件」を発表し、同日、芸能団体代表を招聘して指導方針を説明した(「戦時として萎むな銃後の娯楽」讀賣新聞1941年12月13日朝刊、「戦時娯楽に新指針」朝日新聞1941年12月13日朝刊)。そして翌日には、内務省警察部長事務打合会で周知を行っている。「戦時下国民娯楽ニ関スル緊急措置ニ関スル件」は、「要旨」として、
「音楽、映画、演劇、演芸等ノ国民文化乃至国民娯楽ニ対シテモ出来得ル限リ之ヲ抑圧スルガ如キ方途ヲ避ケ進ンデ積極的指導ヲ加ヘ、銃後国民ニ対シ皇国ノ理想ヲ宣揚シ、民心ノ躍動ニ寄与スルニ足ル雄大ニシテ健全、明朗ニシテ清醇ナル娯楽ヲ與ヘルト共ニ、其ノ効果ヲ活用シ以テ之等国民娯楽ヲシテ啓発宣伝上十分ノ効果ヲ発揮セシメントス」
を掲げている。その上で「興行ノ方式ニ関シ」実施を要する事項として、「徒ニ萎縮的又ハ時局便乗的傾向ニ陥ラザル様之ヲ誘導」すると共に既に発表された作品の再演推奨などの作品創作・発表に関する事項、興行時間と内容の再検証による享受機会の拡大、娯楽施設の分散、「農山漁村、鉱山、工場等ニ於ケル産業戦士ニ対シテハ、移動演劇、映画、音楽隊等ヲ活発ニ活動セシムルコト」という移動文化運動の推奨、休憩時間の有効化、ニュース告知の充実、創作活動の活性化、娯楽内容の指導・運営に関する協議会設置の八項目を提示した。
そこには、1937年から展開した国民精神総動員運動の行き詰まりの打開策としての意味合いが顕著だが、情報局が「積極的指導」して「雄大ニシテ健全」「明朗ニシテ清醇」な娯楽を育成するという姿勢は、敗戦まで変わることはかなった。
さらに特筆すべきは、取締り一辺倒だった内務省も、情報局の施策に連動し、1942年8月21日に内務省警保局が発表した「長期持久戦ニ対応スル治安維持対策要領」で、
「日常生活ノ瑣末ナル部面ニ迄警察的取締ヲ加フルトキハ却ツテ民心ヲ刺激シ徒ニ被圧迫感ヲ濃化スルノ処アリ。仍テ此ノ際保安警察分野ニ於ケル警察執行ノ行過ナキヨウ再検討シ必要ナル是正ヲ加フベキ要アリ」
と、それまでの方針を大転換している。このようにアジア・太平洋地域へ一気に戦線が拡大し破綻する契機となった1941年12月は、文化政策でも、政府が娯楽を積極的に活用し統制するという決定的な政策転換の契機となったのである。
情報局は、政策を業界団体に指導し、各領域の一元統制団体が具体策を立案実行していく仕組みをとっていた。本件でも前述した12月12日の情報局と芸能関係団体との懇談会を受けて、音楽界の再編一元組織として1941年11月に発会した社団法人日本音楽文化協会が中心となって注意事項を策定し、演奏会開催による作曲・演奏の多方面への普及と大東亜音楽建設のための指導研究、歌唱指導に充実、邦人作品演奏推奨、扇情的・頽廃的楽曲の排除といった事項を発表した(「大東亜戦争完遂に楽壇総出陣の構へ」音楽文化新聞第1号1941年12月20日)。
これら音文が提示した注意事項は、例えば日本交響楽団(現・NHK交響楽団)の定期演奏会での邦人作品演奏が、第238回定期公演(1942年9月)から開始されるなどの動きとなって顕在化していく。
戦時期の文化政策は、以降、1943年1月に発表された情報局と内務省による「米英音楽作品蓄音機レコード一覧表」に伴う、実質的な米英音楽作品の演奏禁止措置、1943年1~3月の第81回帝国議会や、1944年1~3月の第84回帝国議会での「積極的指導により健全明朗な娯楽を推奨する」という趣旨の政府答弁、1944年2月に閣議決定された「決戦非常措置要綱」と「高級享楽停止に関する具体策要綱」に伴う移動演劇と移動音楽の推奨、1944年5月1日に次官会議決定された「戦時生活ノ明朗化ニ関スル件」での健全明朗な芸能、文芸、放送、出版物の推奨として継続する。
行政が立法と連携して、国民統合や啓発宣伝による国策遂行のための文化政策を推進していたのであるが、その政策の根底には、前述した情報局の姿勢が貫かれていた。この時期の言論統制は、1944年7月18日の東条内閣総辞職の後、同月22日に小磯内閣が成立したことにより言論暢達政策が実施されたことが先行研究でも明らかだが、こと娯楽政策は、東条内閣から小磯内閣に一貫する健全娯楽育成の政策が継続し敗戦に至る。その画期が、日米開戦の1941年12月であった歴史を今いちど私たちが認識しなければならない。
◆アジア・太平洋戦争期の文化政策の意味
1941年12月を画期として、行政と立法が主体となって推進したアジア・太平洋戦争期の文化政策は、何を意味しているのであろうか。
戦勝に同調する人々を国策遂行のために統合するためには、日中戦争が膠着状態となる中で、生活刷新により人々の日常を統制しようとした国民精神総動員運動の限界をふまえ、健全娯楽の推進による囲い込みという方策がとられた。アジア・太平洋地域への戦線拡大とセットで、啓発宣伝や教化動員のため、政府が文化を主体的に活用したのである。
そこで実施された、職場や地域での歌唱指導を行なう移動音楽の推奨は、純粋な音楽演奏の機会を奪い、挺身活動による歌唱指導を絶対とする自主規制を生み出したが、これら職場や地域の音楽挺身活動は、明らかに戦後の職場の文化運動に継続している。
また、音楽挺身活動のために創作された、公的流行歌たる「国民歌」は、多くの作曲家の創作活動の源泉となり、その作曲家の創作活動は戦後に継続した。これら戦後への継続は、音楽においても自らの問題として再考されるべきであろう。
さらに付言するなら、戦時期の行政や立法の意思決定の仕組みが、戦後に継続していることも重要である。大日本帝国憲法から日本国憲法へという憲法体制や、天皇の位置付けの変化という観点では断絶しているが、例えば、1889年12月施行の「内閣官制」は、皇室に関わる事項を除いて、1947年1月公布の「内閣法」に継続している。
何より閣議決定の仕組み自体、ほとんど不変であることは、内閣の意思決定過程を注視すべきことを物語っているし、どの政党に政治を付託すればよいのか、という人々の国政選挙の投票行動にも直結する問題を秘めていることを、歴史から学ぶことが重要である。何より、日米開戦を契機とするアジア・太平洋戦争期の文化政策が、閣議決定や行政の通牒などによって決定していることを、忘れてはならない。
(つづく)
(2019/12/15)
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戸ノ下達也(Tatsuya Tonoshita)
1963年東京都生まれ。立命館大学産業社会学部卒。洋楽文化史研究会会長・日本大学文理学部人文科学研究所研究員。研究課題は近現代日本の社会と音楽文化。著書に『「国民歌」を唱和した時代』(吉川弘文館、2010年)、『音楽を動員せよ』(青弓社、2008年)、編著書に『戦後の音楽文化』(青弓社、2016年)、『日本の吹奏楽史』(青弓社、2013年)、『日本の合唱史』(青弓社、2011年)、『総力戦と音楽文化』(青弓社、2008年)など。演奏会監修による「音」の再演にも注力している。第5回JASRAC音楽文化賞受賞。