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NHK交響楽団 第2062回定期公演 プログラムC|齋藤俊夫

NHK交響楽団 第2062回定期公演 プログラムC
NHK Symphony Orchestra Subscription Concert No.2062 Program C

2026年4月25日 NHKホール
2026/4/25 NHK Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
写真提供:NHK交響楽団

<演奏>
指揮:下野竜也
ピアノ:反田恭平(*)
コンサートマスター:川崎洋介
<曲目>
外山雄三:『管弦楽のためのディヴェルティメント』
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番ハ長調 作品26(*)
(ソリスト・アンコール)ショパン:練習曲集 作品25より第12番ハ短調『大洋』(*)
伊福部昭:『交響譚詩』
ブリテン:歌劇『ピーター・グライムズ』より『4つの海の間奏曲』

外山雄三、プロコフィエフ、伊福部昭、ブリテンと国際色豊か・多種多様な演目を並べた今回の演奏会は、数々の名匠や今回の指揮者下野竜也たちと切磋琢磨してきたN響の伝統の積み重ねのみが可能とした驚くべきマルチなその技量の高さを示していた。

まず外山雄三『管弦楽のためのディヴェルティメント』、日本各地の民謡を生のままの素材として連ねた本作、自分たちの民謡を西洋の多声部書法や対位法を駆使して扱うのは果たしてどうなのだろう、とも思ったが、それでも聴こえてくる音楽の喜怒哀楽の表情がやっぱりなんだか楽しい、という感覚に嘘はつけない。第1楽章冒頭のホルンの大らかさに心ゆだね、オーボエやクラリネットらの哀愁に感じ入り、その後のオーケストラ全員での多声部書法に唸る。第2楽章は木管楽器やチェロなどの寂しい、あわれな旋律に日本のさびた美を感じる。第3楽章は、ええい祭りだ祭りだ!ムズカシイことは抜きだ!とばかりにフォルティッシモで全員踊り歌い狂う。一時静まってクラリネットとフルートが侘びた旋律をしみじみと奏でるが、また祭りが始まり、凛として了。楽しい!

プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番、第1楽章、神秘的で光を放つ管弦楽のイントロと反田のピアノ。共に機械的ではなく妖精的。ガンガンと叩くのではなくシャンシャンと鳴らす。だが、それは作品に内在するロシア的・ユロージヴイ的アイロニーとはいささかの齟齬がある。中間部の甘い調べの箇所で顕著であったが、リリシズムが作品から「毒抜き」をしてしまいどこか物足りない。反田の超高速パッセージの指の回転には驚愕するしかないが、筆者は腕を束ねざるを得ず。
第2楽章始めの反田のピアノは筆者にとっては聴きたくないプロコフィエフであった。情感的というより肉感的で、色気を振りまきすぎるヌードのよう。なんというか、プロコフィエフは、そんな音楽じゃないんだよ、と言いたくなるのをこらえていた。新古典主義者プロコフィエフと、ロマン主義者プロコフィエフという相対する要素が複雑に絡み合う本作において、反田はあまりにも――ここで器用貧乏という言葉の対義語を作るとすれば――貧乏器用。今回の演奏のどこを切っても反田のリリシズムとロマンティシズムが溢れる「反田のピアノ」であり、それはそれで美しいし、それを為す反田はやはり稀有な才能の持ち主なのだろうが、それだけでは駄目だと感じる筆者のような人間もいるのだ。
第3楽章、オーケストラとピアノがガッチリと四つに組んでの重々しくもリズミカルな序盤は流石と言わざるを得ない。でもその後の息を殺すかのような弱音からのロマン的旋律は……優雅に過ぎるような……いや、これはこれで良いのか? そうなのか? 波打つピアノとオーケストラが一体となって音楽がホール一杯に広がっていき怒涛のクライマックスを迎える……なんだろう、素直になれない。自分の聴いている音楽の快感に身を委ねられない。違和感? 葛藤? なんと言ったら良いのだろう……?
実に繊細微妙な「ずれ」だったのかもしれないが、それでいて致命的な何かが今回の反田―下野・N響―プロコフィエフらの間に存在していたような気がしてならない。そしてそれを解く鍵はアンコールでの「完璧すぎるショパン」の中にあったような気もしてならないのである。反田の中にあったのはプロコフィエフだったのだろうか、ショパンだったのだろうか?

伊福部昭『交響譚詩』第1譚詩、爽やかな、軽やかとすら言い得るような始まり。新古典主義的というより、ソツのない伊福部解釈。木管、金管、弦楽、皆、N響の個人技が素晴らしいのはプログラム前半からずっと。でももっと北海道の原野を道産子がノシノシと歩くような土俗的匂いや、それとは逆方向な芥川也寸志=新交響楽団の録音にあるようなものすごく都会的なレアリゼの冒険が欲しいと感じた。
しかし第2譚詩はメモ書きを忘れるほどに音楽に呑まれた。なんと哀しくも美しいことか。冒頭オーボエに始まり、クラリネット、弦楽器、コール・アングレへと繋がっていく調べが全て美しい連続曲線を描き、感情が一切途切れることがない。伊福部の精神、魂、心、そして祈りがここにあった。最後一歩手前でクレッシェンドしフォルティッシモとなる場面では、兄を失った不条理に対する怒りを叩きつけるかのように激しく。その痛撃の余韻の中から歌い上げられるコール・アングレの寂寥感に満ちた旋律で全ては涙の内に消えゆく。素晴らしい。

プログラム最後のブリテン『ピーター・グライムズ』より『4つの海の間奏曲』、これは今回の外山、プロコフィエフ、伊福部らの音楽とは全く毛色の異なった透き通った音に魅了された。
第1曲「夜明け」、透明な弦とフルートと温かい金管により、清浄な空気に満ちて夜明けが来る。金管と低音楽器による大きな唸る音は朝の海の波の音か?
第2曲「日曜の朝」、生き物たちに訪れた朝をホルンらが表し、フルートやトランペットが鳥たちのようにさえずる。されど、そこに鳴らされる(おそらく複調の)チューブラー・ベルが不穏な空気を醸し出す。
第3曲「月の光」、オーケストラ全体がフワァッと温かく。これは優しく抱きしめてくれる夜の月の光か。でも(これもおそらく複調の)木管とシロホンが入ることによって安らぎを揺るがす何かの存在が感じられる。
第4曲「嵐」、突如として全楽器が荒ぶる。少しバーンスタインのミュージカルをも感じさせる、あまりにも直截的な暴力描写に背筋が凍る。今回の4曲中、凄惨な原作オペラを最もよく表しているのはこの曲だが、凄惨であっても美しいという逆説的美を下野=N響は見事に表現し尽くしていた。最後まで見事に振り切り、奏で切って終演。

こんな演目で果たして何を聴かされるのだろう、と当初はハテナマークが頭の中に浮かんでいたのだが、聴いてみれば、あら不思議、とても面白かったし、特に個人技の見事さたるや、流石N響!としか言えないほどの音楽的力に満ちていた。冒険的プログラムに挑み大成功を収めた下野竜也にも大きな拍手を送りたい。まだまだ音楽は面白くあり続けられる。

(2026/5/15)