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鈴木皓矢チェロ・リサイタル|丘山万里子

鈴木皓矢チェロ・リサイタル
Koya Suzuki Cello Recital

2026年2月26日 小金井宮地楽器ホール  小ホール
2026/2/26 Koganei Miyaji Gakki Hall   
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)

<演奏>
鈴木皓矢vc、鶴澤奏pf

<曲目>
J.S.バッハ : 無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調 BWV1007
F.J.ハイドン : ディヴェルティメント ニ長調(ピアティゴルスキー編)
R.シューマン : ミルテの花より『献呈』『君は花のよう』
F.シューベルト : アルペジオーネソナタ イ短調 D.821
(アンコール)
シューマン : 五つの民謡風小品 作品102より第2曲

 

いい時間だった。
改めて、音楽の日常の豊かさ、を想った一夜。

鈴木皓矢は桐朋音大卒後、リセウ音楽院で学び、ベルリンのハンス・アイスラー音大を経て帰国、ソロ・室内楽に加え邦人現代作品初演に積極的に挑む若手チェリスト。「TRIO VENTUS」「Eureka Quartet」での活動や邦人作品初演については本誌でも取り上げているが、ソロは未だ。プログラムに惹かれ、最近なぜか目にとまることが多くなった小金井宮地楽器ホールに出かけたのである。吉祥寺、三鷹、所沢あたりの公演はたまに行くものの小金井は初めてで、車免許取得に乗降した頃との様変わり、その夜景のきらびやかさに驚愕。駅前にドンと構えるそのホール、ガラス張り、円形コンクリート打ちっぱなしでなかなかモダン。2012年設立時は小金井市民交流センターだったのを楽器商会がネーミングライツを取得、現在の名称に。けっこう古いのに、けっこうカッコよく、小ホールも木の平土間に椅子を並べる形だが、響きは悪くない。地域密着型らしく、ロビーに置いてあるチラシはなぜか「朗読」関連が多い。ゆかりの文豪が多いからか。「大ホール牛田智大 完売!」の小ぶりな立て看板が、いかにも嬉しそう。

さて、この夜のプログラム、このチェリストの美質がたっぷり味わえる選曲なのだ。つまり、「歌心」。以前、彼の三善晃チェロ独奏のための『CH』の演奏に、初めて三善の「うたごえ」と「詩」を聴いて以来、この人の歌をいつかもっと、と思っていたところ、この好機。「Walking with Bach vol.1」とのタイトル。
で、まずバッハ『無伴奏組曲第1番』。流麗、ではあるが、やはりバッハはバッハ。いつ聴いても、たった1本のチェロで途方もなく深遠な世界をそこに現出させる。この時代、音楽は宮廷・教会に属し、王と神とに仕えていたが、おそらくバッハは人間の「魂」というものが見える人だったのだろう。組曲の流れや躍動が描く弧線それぞれに、私たちは今も様々な感情を呼び起こされる。さらにはドキッとするような前衛性。鈴木はそれを一筆書きのような清廉さで描き出した。
次いでのハイドンは、ハンガリー貴族の雇われ楽師。注文に応じて作品を量産したが、ディヴェルティメント(嬉遊曲)は宮廷の食卓や社交場での娯楽品。バッハから一転、易しい旋律を歌い上げる。その歌謡性、いくらでも着色可能だが、鈴木はその種の思い入れをしない。そうして本人トークで「ゴキゲンな」と言った通り、終楽章の快速闊達でまさに嬉遊そのものの疾走ぶりを見せる。アクセル踏んでの細かな刻みの快感。その小気味よい弾み具合にジャズ系もイケるかも、と私は意外な発見をした気分に。
鶴澤奏のピアノがいかにも自然で心得た応答であるのにも感心。野島稔に「作為のあとがない」と言われたそうだが、それは鈴木のチェロによく似合う。

休憩後のシューマン、実はこれが私のお目当て。『ミルテの花』より《献呈》《君は花のよう》をどう歌うか、と。まず、響きの透明。澄んだチェロの音、というのは非常に難しいと私は思う。低音楽器は倍音の豊かな鳴りにこそ魅力があり、すーっと音を清らに通して(透して)ゆくには弓と弦との合一、いわば無心の弓が必要ではないか。さらにシューマンらしい歌い口。どこか口籠もるような、でも強く訴えるような独特さは、ピアノとの呼吸や音色とのあんばいが必須。青春の純粋、ロマンと熱情。短く、けれど忘れえぬその季節を、二人はピュアに歌い上げた。

シューベルト『アルペジオーネ』は、個人的に思い出深い作品。この夜は、かつてチェリスト青木十良(当時80歳だった)と合わせた日々が脳裏に浮かび、追憶のように聴いてしまったのはなぜだろう。ソロでつくづく感じた鈴木のチェロのすがすがしさは、例えばヴィブラートの加減に端的に見える気がする。余計なことをせず素直に流す、ちょっとだけ揺らす、ここは、と「気」を入れる、と、微細に使い分けつつあくまで自然。つまり「作為のあとがない」。フレーズの扱いもまた。
私のスコアには青木の教えが黒、青、赤でぐちゃぐちゃに書き込まれている。ピアノパートに「うすく」とあるのは、透明感をもって、ということで、響きは痩せたり、弱まったりしてはいけない。青木は、練習は全曲ピアニシモで!音楽はピアニシモが全て、と言ったが、鈴木のピアニシモも特筆もの。よく通る声、うた。シューベルトの天真さにふさわしい。
とりわけAdagio楽章のやるせない独歌からAllegrettoへ移ってゆく節でのピアノ低音バスに浮かぶ沈思、そこから伸び上がってゆくチェロの架け橋に、思わず吐息。終章、生き生き溌剌なのにふと翳るつま先ダンスに、青木のチェロの軽(かろ)みがよぎるようだった。ここ、テンポ上げてみましょう、と言われ、すごい速さについて行くうち、まるで翼が生えたみたいにふわっと空に翔けあがった、あの時、「歌の翼に」ってこれか、と幸せすぎて気が遠くなったっけ。音に謙虚であること、誠実であること。表現しない、表現。いつになくそんな師の姿がよみがえったのも、肩肘張らないこのコンサートが生む空気のせいだろう。

思うに、現代初演曲への取り組みでの読譜や技術は、オーソドックスな作品世界の深い理解と実践によってこそ支えられ、同時に、古典へ新たな現代性を吹き込ませもする。今日の若手演奏家にそういう位置どりが増えてきたことが、しみじみ頼もしい。

終演後、名残惜しそうに席を立つお客さん(聴衆というより普段着市民)。お隣のご夫婦が、「よかったねえ」と声掛け合い、満足げに笑みを交わしながら立ち上がる。鈴木の曲目説明に、いちいちうんうん頷いているお客さんたちは、ほぼ中高年層。ちょっと行ってみよか、みたいな感じで足を運んだのだろう。私はジャズ・マガジンに居たこともあり、いろいろな音楽シーンに足を突っ込んでいるが、何ともほのぼのあったかい。
いかにも尖った現代音楽界隈、咳もできない厳粛クラシック界隈、昨今はポピュラー路線でノリノリもあるけれど、多様なステージの多様な客が居てこその、私たちの豊かさ。
地域密着と冒頭に言ったが、このように着実に、音楽の日常は耕されているのだと思う。

                               (2026/3/15)