仙台フィルハーモニー管弦楽団特別演奏会 高関健プロデュース「日本のオーケストラ音楽」展|齋藤俊夫
仙台フィルハーモニー管弦楽団特別演奏会 高関健プロデュース「日本のオーケストラ音楽」展
2026年1月31日 日立システムズホール仙台コンサートホール
2026/1/31 Hitachi Systems Hall SENDAI Concert Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
写真提供:仙台フィルハーモニー管弦楽団
<演奏>
指揮:高関健
コンサートマスター:西本幸弘
管弦楽:仙台フィルハーモニー管弦楽団
<曲目>
柴田南雄:『シンフォニア』(1960)
湯浅譲二:『芭蕉の情景』(1980)
第1曲「冬の日や 馬上に氷る 影法師」
第2曲「あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風」
第3曲「名月や 門に指し来る 潮頭」
吉松隆:『交響曲第3番』作品75(1998)
1960年、1980年、1998年という、ほぼ20年おきの日本現代音楽作品を並べた今回のプログラムは、ただ時間間隔を定めただけではない、作曲時代ごとのイズムの変遷と、それを俯瞰する我々の持つイズムの位相差を検証する場を作り出していた。
まず柴田南雄『シンフォニア』、トータル・セリエリズムに則った本作だが、ヴェーベルンからブーレーズ(例えば『ル・マルトー・サン・メートル』)の静謐な強迫からは遠い、表現主義的かつ(逆説になるかもしれないが)人間的な熱を帯びた音の連鎖に快感が宿り、酔う。プレトークで高関健がシェーンベルク『管弦楽のための協奏曲』との親近性を述べていたが、なるほど、と頷く。急・緩・急の緩の部分のCD録音ではわからないドラやサスペンデッド・シンバルなどの打楽器単音弱音の茫洋たる響きもまた心地よい。最後の急の場面に至って高関・仙台フィルの演奏の鋭さたるや筆舌に尽くし難い。打楽器が閃光を放ち、弦楽器の刃物が空間を切り刻む。そしてデクレッシェンドして、宴は終わった。
システマティックであるがゆえの表現の豊かさ、システマティックであるがゆえの人間的情念の発露、そんな一見相矛盾した芸術的真実がここでは実現していた。
柴田作品から20年後の湯浅譲二『芭蕉の情景』に至ると、作品の構造・構成の客観性・主観性はガラリと変わる。柴田作品は構造・構成の客観的裏付けに則って成立していたが、湯浅作品は隅から隅まで湯浅の主観的美意識によって成立している。
「冬の日や 馬上に氷る 影法師」、イントロのチューブラー・ベルとクラリネットやフルートらによる冷たい空気が流れ、そこにオーボエ、イングリッシュ・ホルンらや、弦楽器も加わり凍てつく風が吹き渡る。厳寒の透き通る大気の上、空高い雲が我らを見下ろしている。そこからさらに視点が上昇し、大気圏、宇宙へと至るが、あくまで冷たい。鍵盤打楽器のグリッサンドで了。
「あかあかと 日に難面(つれなく)も 秋の風」一聴してどんな方法で出しているのかわからない不可思議な管弦楽法によるイントロ。視界に入る光景のネガとポジが反転する。ドイツ表現主義のシネマのようだ。全てがこちらに挑みかかってくるようだが、その恐ろしさに捕らわれつつも聴かざるをえない、なんという美しさ……。コントラ・ファゴットと高音弦楽器の二重露光の余韻が消えるまで息を呑んで聴き入った。
「名月や 門に指し来る 潮頭」弦楽器の弱音クラスター的音響に金管・木管が被さる音響は夜の寒さか。だがそこにチェレスタが加わるところから音のスケールが絢爛とも言えるほど大きく迫ってくる。空に大きくかかる名月と潮頭の対の情景か? 動かぬ月と動く潮の見せる刻々の表情がそこに現れているようではないか。しかし全ては寂静の中に消えゆく。
ごく短い3篇からなる小品ながら、「これぞ現代音楽」と言いたくなるほどの実に厳しく濃密に彫琢された傑作であった。
湯浅作品から18年後、まさに世紀末、とうに「前衛の理想」が陰ったポストモダン時代に書かれた吉松隆『交響曲第3番』を前半2作品と同じ耳で聴くことにはいささかの後ろめたさにも似た躊躇いを覚えざるをえない。「前衛の理想」が崩れるなんてことがあってたまるか、という一種の前衛的矜持、それに共感する部分が筆者にもある。だが、吉松の本作品に共感してエキサイトしてしまう自分も確かにいる。ならば、正直に吉松への共感を記さなければ批評家として失格であろうと思う。
だがさらに、エキサイトしたという本作について主観客観両面から記述しようとすると「書くことがない」というジレンマに陥る。カッコ良くて可愛くてグルービーで最後には堂々の大団円で終幕する……だから何だったのだ? 何を筆者は聴いて興奮したのだろうか?という自らの内からこみ上げる問いかけに返答できない。作品・演奏のあの部分が良かった、あの部分はイマイチだった、の積み重ねが積み重ね以上のものとして文章化しない。音楽が筆者を通して化学反応を起こして言語とならない。
それは筆者も前衛音楽を範とするイズムに浸った人間だからであろうか? 怒涛の終曲後、会場で初めてその人自身を見た吉松隆に盛んに拍手を贈り、これ以上の喜びはないと感じたほどの感銘を受けたはずなのに、数日経って本稿を執筆している今、筆者は自分の胸の空白が埋められない。これは、きっと、寂しいことだろう。
およそ20年ごとの時代精神を映す日本現代オーケストラ作品展、ならば2020年の時代精神はいかに?と筆者は意地悪く問いかけたくなる。本誌五線紙のパンセに並んだ一騎当千のツワモノに恵まれた日本現代音楽にそんな作品はないとは言わせたくない(*)。日本現代音楽界、ひいては日本クラシック音楽界の閉塞を打ち破るナニモノカを求めて、これからも現代音楽に向き合いたいと強く思った。
(*)ここで想起される2025年4月30日東京都交響楽団 第1020回定期演奏会Aシリーズの夏田昌和:オーケストラのための『重力波』は2004年の作品ながら、その再演は実に快挙・壮挙であったと称えざるをえない。
(2026/2/15)
