NHK交響楽団 第2055回 定期公演 Cプログラム|秋元陽平
NHK交響楽団 第2055回 定期公演 Cプログラム|秋元陽平
NHK Symphony Orchestra 2055th Subscription Concert
2026年1月23日 NHKホール
2026/1/23 NHK Hall
Reviewed by秋元陽平(Yohei Akimoto)
写真提供:NHK交響楽団
<プログラム>
ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲
デュティユー/チェロ協奏曲 「遥かなる遠い国へ」
リムスキー・コルサコフ/組曲「サルタン皇帝の物語」 作品57
ストラヴィンスキー/バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)
(ソリストアンコール:アレクサンドル・チェレプニン/チェロ組曲 作品76 から 第2曲)
<演奏>
NHK交響楽団
指揮:トゥガン・ソヒエフ
チェロ:上野通明
ソヒエフの音楽は豊かな音響を持つが、それはまずテクスチュアと、音の持つ運動感覚への着目によって可能になっているようだ。その卓越したバトンテクニックのあいまに、ソヒエフは実にさまざまなニュアンス——擦れるような、走り抜けるような、はたまた突き抜けるような——を弦打管に指示する。
『牧神』は、このニュアンスの書き分けを徹底するためにテンポをかなり落とし、音のブレンドが完成するまで大胆に滞留しながら音楽を拡大鏡で覗くような演奏だ。あまりにクローズアップするので、ときに対比的にあらわれる早いパッセージが行き場を失ってしまい、アンサンブルがもたつくようなところもあったが、弱音部の、ニンフの衣擦れのようなざわめきを経て、シチリアの草熱れする夏の午後の日射に照らされた、濃密な空気が立ち上がってくる。
このテクスチュアの音楽の極致こそが『火の鳥』である。火の鳥の有名な羽音をはじめ、ありとあらゆる種類の運動性をまとった音が乱舞するこの組曲でも、ソヒエフはかなり抑えたテンポで、パッセージの隅々まで手触りを持たせる。怪獣的な音響と疾走感で誤魔化されてしまいそうなカッチェイの踊りでは、やや重い足取りながら、対位法的な噛み合いの妙がくっきりと示され、ストラヴィンスキーの技法に改めて驚く。「終曲」の金管の充実は嬉しく、絢爛としたロシアのサウンドを奏でるN響は、このあいだデュトワのもとで薄化粧で薄氷を踏むような音作りをしていたとは思えないほどのドレス・チェンジだ。他方、軽快なリムスキー・コルサコフは、『シェヘラザード』で聞き覚えのあるパッセージのさまざまなヴァリアントがところどころ現れるのが楽しい。傑作にいたるひとつの道程というところだが、第3楽章の楽想の切り替えの鋭さはさすが。トランペット首席の輝かしいファンファーレも素晴らしい。
だが、このコンサートを印象付けたのはなんといっても、上野通明を迎えたチェロ協奏曲『遥かなる遠い国へ』(後述のとおり正確には『遠い世界すべてが』)だ。デュティユーの音楽は、コンセプチュアルな技法上の関心よりも、まず強烈なヴィジョンに貫かれている。もちろん彼を含むあらゆる作曲家は実際にはヴィジョンの達成のためにさまざまな技法上の課題に取り組み、そこから作品を伸長させていくのだが、デュティユーの作品は、聴衆として身を浸した時にはそうした痕跡がもはや見えなくなるくらいに完全に自立した「世界」となっている。そのオーケストレーションや和声は伝統的なフランス調性音楽の色彩感を吸収しているのだが、ここでは、ときに十二音技法を吸収しながらそうした伝統的エクリチュールを突き抜けて行く、伝統と革新を蝶番のように結びつけるあり方が、あたかもシュルレアリストたちのいう「デペイズマンdépaysement」のように、見知った風景が突如別世界に見えてくるような幻想的な効果をもたらしているのだ。なお長い間変更されていないように見えるのだが、tout un monde lointainのtoutは、lointainを強調する副詞として捉え「遙かな」と訳すよりも、「monde世界」にかかって、whole worldつまり「遠い世界すべて」と訳すべきではないか。
ボードレールが描くのは、女の髪のなかに、ひとつの異国が「まるごと」入っているという、逆説的な驚異なのだ:「悩ましげなアジアと灼熱のアフリカ/遠く、ここにはない、ほとんど喪われた世界のすべてが/お前[=髪]の奥深くで生きているのだ、かぐわしい森よ!」(拙訳)。
このチェロパートを理解するためには、したがってまず、この異世界まるごとの現出というヴィジョンへと接続しないといけないが、上野通明はこの異界へとわれわれ聴衆を接続するにふさわしい、詩的な霊感を持つ演奏家だ。「賛歌」冒頭の繰り返す7度の跳躍、「鏡」の十二音の暗号めいた訴えかけ、全体を貫く執拗なオスティナート的要素は、自作曲の解説にあたって技法上の実験的関心ばかり嬉々として語るような作曲家には存在すら想像できないであろう「世界の謎」——デュティユーはそれへ他の芸術を介して向き合う。この場合はボードレールの詩だ——を辛抱強く、ひたすら指示する。上野はすでにこのロマンの内側にいるからこそ、それを伝えることができる。そこにはボードレールそのひとにも通用するダンディズムもある。牧神とはうってかわって、ソヒエフはマリンバの一音まで狙った位置に落とす職人的な時間管理でこの夢想的な世界を支える。そこには驚異が、夢が、全てが裏返る予感がある。あらためてこのチェロ協奏曲は、フランス音楽と文学からの莫大な文化相続を、デュティユーそのひとの熟達したエクリチュールによってひとつの世界創造へと高めた、息を呑むような傑作だ。こんにちの作曲界に、このような幻視者が果たしてあらわれるだろうか。
(2026/2/15)
