注目の1枚|近藤譲 オーケストラ作品集「牧歌」|齋藤俊夫
ALM Records/有限会社コジマ録音
ALM-146
11月7日発売
Text by 齋藤俊夫 (Toshio Saito)
<演奏>
指揮:ピエール=アンドレ・ヴァラド
読売日本交響楽団
国立音楽大学クラリネットアンサンブル(*)
<曲目>
(全て近藤譲作曲)
『牧歌』オーケストラのための(1989)
『鳥楽器の役割』オーケストラのための(1975)
『フロンティア』3本のソロ・クラリネットと5部のクラリネット合奏のための(1991)(*)
『ブレイス・オブ・シェイクス』オーケストラのための(2022)
『パリンプセスト』オーケストラのための(2021)
「もしもピアノが弾けたなら」という歌謡曲のごとく、「もしも作曲ができたなら」と考えたとしても、筆者には近藤譲のような作品はとうてい書こうとも思わない、いや、こんな音楽が人間によって書けるということすら思い至らないであろう。
1音1音が脳髄の謎ゾーンに刺さってきて、恐怖にも似た感覚を呼び起こす。現在聴いている音、その前の過去に聴いた音、この後の未来に聴く音の連なりが全て不可解だが、絶対ランダムではない、計算・管理され尽くした音の(悪)夢的連鎖。
ある意味マンネリズムの極み(を50年位続けてきた)とも言える近藤の諸作品であるが、作品の根幹はずっと同じでも、そこから伸ばされる枝葉は存外に多様であることは本CDでも明らかであろう。
『牧歌』、セリエリズムのような数理論理に則ったのでも、(自然な)身体・精神感覚に委ねたのでもない、近藤的としか言いようのないオーケストラによる点描が続く。今回筆者が最も恐ろしいと感じたのはトラックの10分から12分あたりで現れる、ひそやかだがおどろおどろしい幽世(かくりよ)の歌。どうしてこんな音楽がありえるのだろうか。
『鳥楽器の役割』ではグリッサンドが多用されるが、クセナキスに近いようで遥かに遠い。クセナキスが非人間的であるのに対して、近藤はもっと人間の体温を感じさせるが、されど生身、生者の人間とも思えないから困る。徐々に音楽のスケールが大きくなってもクセナキスの宇宙的スケールではなく人間の内的宇宙に内攻する。
『フロンティア』は『牧歌』に近い作品であるが、楽器をクラリネットに絞ることによってその柔らかな音色がこちらの心のひだをサラサラと、いや、ザラザラと?撫でるような気持ち良さ/悪さを味わう。
『ブレイス・オブ・シェイクス』は近藤作品にしては速度と音量があるが、その音の進行過程(これが和声進行と言って良いのかどうか筆者にはわかりかねる)は近藤の「いつもの」作品と同類である。曲の最後のロングトーンがえらく怖い。
『パリンプセスト』は『ブレイス・オブ・シェイクス』とは打って変わってレントでまろやかな⋯⋯いや、やっぱりどこか怖い感触。冒頭に主題旋律(と筆者には聴こえたが定かではない)の音の列が現れる。言わばその主題の変奏といった趣で作品が進行し、ゆっくりとクレッシェンドしてこちらに近づいてくる音の集合が恐ろしい。最接近して、やめてくれ、と言いたくなるが、なんとか持ちこたえると全体が遠ざかっていって、了。
「ながら聴き」などを許さない近藤譲ワールドは未だ健在。その安定の不可解さにほっとしつつ、次もまた同じなのだろうか、いや、同じなのに違うという逆説が待っているのかもしれない、などと色々と考えてしまい、結局は「次があってほしい」と思わざるを得ない。現代の巨匠の変わらぬ新しい姿を聴きたければ是非この1枚を、とお勧めする。
(2025/12/15)

