イゴール・レヴィット ピアノ・リサイタル|能登原由美
イゴール・レヴィット ピアノ・リサイタル
Igor Levit Piano Recital
2025年11月27日東京建物Brillia HALL 箕面
2025/11/27 Tokyo Tatemono Brillia HALL MINOH
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
写真提供:(公財)箕面市メイプル文化財団
〈プログラム〉
シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D960
シューマン:4つの夜曲 Op. 23
ショパン:ピアノ・ソナタ第3番ロ短調 Op. 58
アンコール
シューマン:子供の情景 Op. 15より第13曲「詩人のお話」
〈演奏〉
ピアノ:イゴール・レヴィット
鍵盤を離れた手は不思議な動きをする。指をこすったり小刻みに揺らしたり、何かをなだめるように掌を宙においたり。指先ばかりではない。その体から現れる一つひとつの仕草に魅せられる。音の行方を追いかけるがごとくピアノの周囲に目をやったり、微笑んだり相槌を打ったり。たった今、自らが生み出したばかりの音と対話をしているのか…。それは音楽に酔うというより、見守る、育てるといった行為を彷彿とさせる。
なるほど、演奏とは音楽を生み出し育むという営みだ。ゆえにそれ自体が「生」のベクトルをもつ。そこに至上の喜びを見いだしている目の前の弾き手も然り。その点において、この日の舞台にあったのは「生きる人」そのものであった。もっといえば、これほど「生きている今」を感じさせる奏者に遭遇したことはない。
とはいえ、プログラムに並ぶのは、「死」と隣り合わせとなった3つの楽曲。父親や兄など身近な者の訃報を前に、または自らの衰えゆく体を前に、死期を意識したような作品ばかり。さらにアンコールでは、シューマン《子供の情景》から〈詩人のお話〉。これは13曲からなる連作集の末尾にあり、子供の世界を語ったそれまでの12曲とは様相を変え語り手である詩人、すなわち作者自身が主体となる曲だ。単に一連の話の締めくくりにはとどまらない、どこか人生の終焉を想起させるような薫りも立ち込めている。さらなるアンコールを求める長い拍手に何度も手を合わせお辞儀をするが、これで締めくくるということにも重要な意図があったに違いない。
だがこれらの演目とは相反して、身体から生み出される音楽は、定型化された「死」とは無縁の、むしろそこから逸脱することで逆に「生」を想起させるといって良いものであった。とりわけシューベルトのソナタ。確かに最初の2つの楽章では、夢とも現とも見紛う世界が開かれていた。冒頭楽章では打鍵を柔らかく浮かせることで音を宙に漂わせる。色や形はあるが全てが茫としており、まるで紗幕の向こう側を見ている心持ちになる。もはや魂は肉体を離れてしまったのか。第2楽章では鍵の奥で響きを作る。同じ弱音でも前楽章とは真逆の深く沈んだ音色。まさに死の淵に佇む者を連想させる。けれども第3、4楽章では一転。拍節を取り払い、持ち前の超絶技巧を駆使してパッセージを連綿と繰り出す。まるで時間の軛から解放されたかのような、あるいはそれを超越したかのような異次元の響きだ。仮にそれが死の世界であるというのなら、その中を嬉々として生きる姿を見る思いであった。
「死」を意識することで「生」が立ち現れる。なんとも逆説的な舞台だ。あるいは「生ききる」ことを通して、もはやその力を失ってしまった死者たちを想起させようというのだろうか。
いやまさに。その楽譜とともに永遠に眠る作者を甦らせることも、重要な目論みであったのだろう。つまり後半の演目、特にショパンのソナタでは、磐石なタッチをもとに主題やモチーフをくっきりと浮き上がらせる。その裡にある憂いは彼岸のものというよりは現世の煩悩に近い。そればかりか、溢れ出るあらゆる喜怒哀楽の情念には「生」への強い意志が滲み出る。むしろこれは、死の予感を抱きながらも生きることを希求する作り手の声であったというべきではないだろうか。
社会に積極的にコミットする奏者として知られるイゴール・レヴィット。ドイツに居住するユダヤ系ロシア人という立場からの政治的発言や、コロナ禍でのピアノ生演奏の連続配信など、人間の存在の危うさに常に敏感であり、それは彼の「音楽をする行為」にも繋がっている。ゆえにその生死への問いがいかに現れるのか、興味をもって足を運んだ。見えてきたのは、「死」よりも「生」への志向が限りなく強い音楽家の姿。が、それはこの不穏な時代にあっては一抹の光のように感じられた。
(2025/12/15)





