NHK交響楽団 第2049回 定期公演 Cプログラム|秋元陽平
NHK交響楽団 第2049回 定期公演 Cプログラム
NHK Symphony Orchestra 2049th Subscription Concert
2025年11月14日 NHKホール
2025/11/14 NHK Hall
Reviewed by 秋元陽平(Yohei Akimoto)
写真提供:NHK交響楽団
〈プログラム〉
ラヴェル/亡き王女のためのパヴァーヌ
ラヴェル/組曲「クープランの墓」
ラヴェル/バレエ音楽「ダフニスとクロエ」 (全曲)*
〈演奏〉
NHK交響楽団
指揮:シャルル・デュトワ
合唱:二期会合唱団*
今年もさまざまな名演に立ち会ったが、これほどまでにオーケストラは魔法だ、と思う公演もなかった。今夜のデュトワとNHK交響楽団のラヴェルは、さまざまな解釈のうちでも最も緻密で、最も禁欲的な、ダンディズムの極地にあるラヴェルだ。ぎりぎりまで絞り込まれた線の境にうっすらと滲む色彩の、なんと美しく、なんと厳しいことだろう。
デュトワの音楽の色彩感は、彼の音楽の形態を掴む卓越した力に由来していると思う。形態、つまり、舞曲のリズム、モチーフ同士の連携の、時間的輪郭の透徹した理解である。指揮者のやることは色彩の直接指定ではなく時間の彫琢なのだから、ある意味でこれは当たり前だというひともいよう。しかしデュトワのもとではN響の音色があまりにも変貌するので、改めてこうしたことを考えざるを得ないのだ。フォルムの感覚を研ぎ澄ますこと、それはラヴェル自身が要求していることでもある。『クープランの墓』は知られているようにバロック期のヴェルサイユふうクラヴサン音楽へのオマージュだが、減衰の速いクラヴサンを模した響きをオーケストラ編曲で演奏するときに重要になるのが、それぞれの舞曲の持つ独特のアクセントに他ならない。まったくもって、デュトワはただの一パッセージも勢いで弾くことを許さない。例えば「プレリュード」の驥尾をかざる華やかな下降や、「リゴードン」の力強いテーマなど、多くの指揮者・オーケストラが開放感とともに音楽を弛緩させ、色彩感をもって「ラヴェルらしさ」とすれば聴衆もそれになんとなく納得するだろう、というような場面であっても、デュトワはきわめて厳格にリズム構造を保持し、バロック舞曲の一拍目に回帰するあの推進力が、融通無碍なオーケストレーションの中に小気味よい拍動を生み出している。そしてバロック音楽におけるのと同様に、揺るぎなく回帰するリズム感覚があるからこそ、そのはざまに個々のN響メンバーに許される、会話の綾のような、指先の震えのような、そうした「文体style」としか言いようのない香気の瞬間的な発露——一瞬のヴィブラートや、クレシェンド——が忘れがたい印象をもたらし、そこではじめてフランスらしい、ラヴェルらしい色彩だと認知されるのだ。ラヴェルの新古典主義的感性の核も、そういった形態と色彩の結びつきにあるだろう。
順番が前後したが、『亡き王女のためのパヴァーヌ』も、今までに聴いたことのない次元の演奏だった。パヴァーヌと銘打たれてはいるが、ピアノで弾くと例えば展開部の三連符のさじ加減など実に難しく、さまざまな録音をあたってみると、アゴーギグがジャズのように崩れた演奏や、どこか手持ち無沙汰な演奏には事欠かない。加えて冒頭の一音からピアノの単音の減衰が儚い印象をもたらす原曲に比べ、オーケストラ編曲はどうも大げさなアダージョのようになってしまう傾向がある。要するにいかに作曲者当人といえどもこのオーケストラ版にはさほど魅力を感じないというのがこれまでの私の偽らざる本音であった。だが今宵の演奏を聴くや。一番ホルンの、それこそ17世紀の油彩画のように厚い奥行きを思わせる遠くふくよかな音色が、デュトワがぎりぎりまで引き絞った音量・色調のなかをすべっていく。反響の少ないNHKホールだからこそ、かえってはっきりと、いかなるごまかしもなく、線描の段階から隅々まで神経の通った仕事がなされているのだと分かる。今まで気にしたこともなかったが、ラヴェルが示唆するベラスケスの絵画が頭に浮かぶようだ。
『ダフニスとクロエ』といえば高校生のころ、すでにいまのデュトワの年齢くらいであったジャン・フルネと都響の演奏会に友人と出かけていき、星の降り注ぐような音響に圧倒されたことをよく覚えている。デュトワによるこのたびの演奏はそれと並び、生涯記憶に残るものとなった。N響が示したのは、ラヴェルのオーケストレーションは、隅々まで磨き抜いたときにはじめてさまざまな効果を引き起こすということだ。例えば不思議なことに、合唱が歌っていないときですら、オーケストラのなかに合唱がきこえるような錯覚が生じる。また、終盤の全員の踊りは、ほんとうは熱狂的で即興的な勢いはさほど必要なく、例えばEsクラリネットの連符や、ずり上がるヴォカリーズなど、すべてのエレメントが、互いをせき立てることなく確固として自らのフォルムを維持することそれ自体によって、細密に描き込まれた壁画が迫ってくるような——そう、だから作曲者当人も言うように、壁画なのだ——、そうした静的なものの迫力が生まれるのだ。今年何人もの高齢に達した名演奏家・名指揮者の演奏に多く触れ、そこには善くも悪くも若手とは異なるアプローチが存在し、私は別の機会にそれぞれの年齢に応じた演奏というものがある、ということを書いた。だが今のデュトワにはこうしたことは全く当てはまらない。彫琢された音楽は普遍的な輝きをもっているし、この演奏会を聴く限り、彼は今また新たな芸術的ピークを迎えていると言えるだろう。
(2025/12/15)

