小人閑居為不善日記|怪物としての碇シンジ──《フランケンシュタイン》と《ピースメイカー》|noirse
怪物としての碇シンジ──《フランケンシュタイン》と《ピースメイカー》
Ikari Shinji as a Monster
Text by noirse : Guest
《新世紀エヴァンゲリオン》シリーズ、《フランケンシュタイン》(2025)、《スーパー!》、
《スーパーマン》(2025)、《ナイトメア・アリー》の内容について触れています
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10月から《新世紀エヴァンゲリオン》の劇場版シリーズの再上映が始まっている。《エヴァ》は1995年秋にTVシリーズの放送が開始されて翌春最終回を迎えたが、劇中の謎が解き明かされることなく終わったため、97年の冬に《新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生》、翌98年夏に《新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に》の2本の映画、通称《旧劇》が公開された。
エヴァを操る組織の隠された目的は、人類を単一の存在へ統合する「人類補完計画」にあった。人間が個々に生きていく限り他者と理解し合うことはできず、それによって苦しみが生まれる。よって人間が真の幸福を得るには全人類を統合するしかないという考えだ。
人類はすべて「補完」されてしまうが、エヴァンゲリオンのパイロット、碇シンジは融合を拒否する。シンジはもともと他人とのコミュニケーションを苦痛としていたが、さらに敵と戦う過程で周囲の人間を傷つけてしまい、精神崩壊寸前にあった。それゆえに進んで「補完」されることを望んでもおかしくないのだが、それでも他者と傷つけ合いながら生きていく道を選択する。
《エヴァ》の高評価はシンジを始めとしたキャラクターの苦悩を掘り下げた点にもあったが、《旧劇》の結末は彼らの苦しみを救済するようなものではなかった。そのためか、2007年から開始したリブート版《ヱヴァンゲリヲン新劇場版》四部作の最終編《シン・エヴァンゲリオン劇場版:||》、通称《シンエヴァ》では明快な結末が用意された。シンジを苦しめた父親にして指揮官の碇ゲンドウは自らの過失に気づき、父子は和解する。補完計画も頓挫して、成長したシンジは新たな一歩を踏み出していく。こうしてシンジのみならず他のキャラクターの苦悩にも決着をつけた《シンエヴァ》は、概ね高評価をもって迎えられた。
けれどもわたしはそれらの賛辞に同意できなかった。《シンエヴァ》での問題解決のプロセスは平易なもので、TVシリーズや《旧劇》での、鈍重かもしれないがねばり強く、ナイフで切れば血を噴くような生々しさに欠けている。なにより《旧劇》最後の、満ち足りていて幸福かもしれないが自他の境界線もない世界を足蹴にして、他者と理解し合えず、どこまでも傷つけ合い、つらく苦しく死ぬまで救われることはない、それでもすぐ側に他者がいることを選択するシンジの決断ほどの重みは、《シンエヴァ》には微塵もない。
《シンエヴァ》は対話や共感がより必要とされる現代に適応した「正しい」作品なのだろう。けれども軋轢が取り払われた《シンエヴァ》は、皮肉にも他者の存在しない「補完」された世界に近しいとすら感じられるものだ。一方苦しみが取り払われることはなく、なんら問題解決もしない《旧劇》は、現代の尺度からすると「正しくない」のかもしれない。けれども正しさばかりが強要される今の社会に息苦しさを感じる人間には、未だ共感を呼べる作品だと再認識できるものだった。
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《エヴァ》と前後してNetflix製作の《フランケンシュタイン》の先行上映を見に行った。メキシコを代表する映画監督ギレルモ・デル・トロの最新作で、この文章が掲載されるころには配信が開始されているはずだ。
《フランケンシュタイン》のストーリーについては説明不要だろう。けれどもこの作品が、近年あらためて注目を浴びていることには補足が必要かもしれない。今では怪奇小説の金字塔である《フランケンシュタイン》も、発表当時は女性の地位が低かった時代ゆえ、売上も評価も芳しくなかった。メアリーはその後も作品を書き続けたが、結局生前に文壇から認められることはなかったし、《フランケンシュタイン》が古典として確固たる地位を築いたあとも、作家メアリーの不遇は長いあいだ続いた。
メアリーの母親メアリ・ウルストンクラフトはフェミニズムの先駆者だったが、娘メアリーの作品からは母親の思想の跡が見受けられないということで、批判さえされていた。けれども研究が進み、メアリーが母親の思想に親しんでいて、作品からもフェミニズム思想を認められることが明らかになっていった。英文学者の小川公代は、著書《ケアの物語 フランケンシュタインからはじめる》でこう述べる。
20世紀のフェミニストたちは『フランケンシュタイン』を闘わない人々の物語として揶揄してきた。しかし、保守的であるとして批判され続けてきたメアリ・シェリーは、じつは母親のメアリ・ウルストンクラフトのフェミニズムの教義に忠実に生き、ケアや非暴力の可能性を探求することによって、暴力に溢れる世界を変えようとしていた。
(……)
今では『フランケンシュタイン』が単なるモンスター小説ではないこと、ケア実践や非暴力の力を肯定していた小説であることを理解することができる。
そこで今回の《フランケンシュタイン》である。監督のデル・トロはホラー映画やゴシックカルチャーを愛好していて、《シェイプ・オブ・ウォーター》(2017)などにおいて、モンスターやアンチヒューマンを人間社会から疎外された存在として共感を込めて描き続けてきた。
今回のデル・トロは「フランケンシュタインの怪物」だけに留まらずもう一人のモンスター、すなわち怪物の生みの親である、ヴィクター・フランケンシュタイン博士をも包摂していく。卓越した頭脳を持ち、死から生を生み出すという奇跡を実現しながら、自分が生み出した「子供」を育てることには興味をもてず、「子供」が世界に絶望していくことを止められなかった、もうひとりの「怪物」だ。
弟とその婚約者を死なせてしまい、復讐を誓ったヴィクターは、怪物を北極まで追いかけるが、闘いの果てに倒れ、死の床に着く。怪物との対話でヴィクターは自らの過失に気づき、怪物は彼のことを許す。ヴィクターは安らぎの中で息を引き取り、怪物も過去から解き放たれる。
「ケア実践や非暴力の力を肯定していた小説」の現代的解釈として、理想的な脚色と言えるだろう。けれども釈然としない気持ちもある。原作での怪物はヴィクターと和解することなく、自らの死にのみ救いを見出している。怪物の最後の独白を引用しよう(光文社新訳文庫、小林章夫訳)。
おれはこの身の不幸をわかってくれと言いたいのではない。そもそも人の同情など受けた例(ためし)はないのだ。最初はわかってもらいたいと思った。美徳を愛する心、幸福と愛情がおれの身体全体に溢れていることを、わかって欲しいと思った。
だが今は、そんな美徳などおれには影のようなもの、幸福と愛情は、苦くつらい絶望に過ぎない。そんなときに、人にわかってもらってどうなるというのだ? この苦しみは、一人で苦しめばそれで十分だ。
(……)
おれをつくった男は死んだ。そのうえおれがいなくなれば、二人の記憶はあっという間に消えるだろう。もはや太陽も星も見えず、風が頬をかすめるのも感じることもない。光も感情も感覚も消える。
おれはそんな状態に幸福を見出すのだ。
この独白からは、どうあがいても乗り越えられない壁を前にして安逸の場所を探ろうとする、切実な想いが窺える。怪物は自らの死を示唆するが、その後どうなったのかは茫洋として知れない。もしその後すぐに怪物が自死せず、他者との関わりを絶ちひとり静かに生き永らえたとすれば、案外穏やかな生をまっとうしたとは考えられないだろうか。
怪物の嘆きを、小川は「いわば反出生主義ともいえる」と指摘する。反出生主義とは「生まれてこなければよかった」という問いのことで、のしかかる苦痛も生まれてこなければ免れることができるというロジックだ。哲学者のデイヴィッド・ベネターが「人間が生きることはすべからく害であり、人類は子孫を残すことをやめてゆるやかに絶滅すべき」と提唱して議論を巻き起こし、日本でも数年前に著書が翻訳されて話題を呼んだ。
極端な意見に聞こえるかもしれないが、ベネターの掲げる反出生主義はあくまで哲学的な問題設定だ。けれども議論のための議論というわけでもなく、反出生主義にもポジティブな側面はある。
たとえば世間一般では、生まれることは当然の如く善であり、子孫を残すことも肯定すべきという価値観が強い。けれども生まれてきてよかったと思えない人や、子孫を残すことに否定的な人も多いはずだ。出生主義が抑圧的に作用すれば、彼らにさらなる苦痛を与えかねない。「生まれてこなければよかった」という考えはけして悪いことではないと肯定することは、そういう人たちの支えにもなるだろう。
「おれがいなくなれば、二人の記憶はあっという間に消えるだろう」と言うように、今後怪物が人前に現れなければ、彼にとって「生まれてこなかった」世界にいるのとそう変わらないとも言える。怪物にとってそれは、生まれて初めて得ることのできた安らぎの時なのではないだろうか。
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《フランケンシュタイン》は何度も映画化されているが、1994年のコッポラ製作、シェイクスピア俳優のケネス・ブラナーが監督を手掛けたバージョンでは、怪物をロバート・デ・ニーロが演じていた。評価は今ひとつだったが、世界のすべてを呪う怪物役に人を殺すことに取り憑かれた《タクシードライバー》(1976)の俳優を選んだのは、筋の通ったキャスティングではあった。
《タクシードライバー》はその後多くの作品の参照元となっているが、そのうちのひとつに《スーパー!》(2010)がある。うだつの上がらない人生を送るフランクにとって、美しい妻サラだけが心の支えだった。けれどもサラはギャングの情婦となり、ドラッグ漬けになってしまう。打ちひしがれたフランクは突如神の啓示を受け、自らをスーパーヒーロー「クリムゾン・ボルト」だと信じ、自作のコスチュームを身にまとって地元のチンピラをレンチで殴り半殺しにしていく。
フランクは激闘の末にギャングを殺害し、サラを助け出す。けれどもその後サラはふたたび彼のもとを去り、別の男と再婚して子供を生み、幸せな家庭を築く。数年後、フランクはひとりウサギを飼い、「フランクおじさんへ」と書かれたサラの子供たちの絵を眺めながら、うっすら涙を浮かべる。グロテスクで自虐的なブラックコメディで、見ているとあまりに痛々しく目を背けたくもなるのだが、愛する妻のために狂気の淵に片足を突っ込み、すべてを失った男が、それでも静かに生きていく姿には、不思議なすがすがしさもあった。
妄想に駆られてギャングの暗殺に向かう箇所は《タクシードライバー》通りだが、ヒーローものとミックスした点がユニークだ。興行的には成功しなかったものの業界の注目を浴び、監督のジェームズ・ガンはマーベルスタジオに雇われて《ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー》シリーズを演出。高い評価を受け、その後DCスタジオのCEOに着任し、今年遂に《スーパーマン》を公開、これも絶賛されている。
絵に描いたようなオタクの出世物語だが、けれども《スーパー!》を撮っていた監督としては、近作には不満が残る。ガンがDCで製作したドラマシリーズ《ピースメイカー》(2021-25)を振り返ってみよう。
クリスはスーパーヒーロー「ピースメイカー」を自認していて、人類を滅ぼそうと暗躍する「バタフライ」と戦うプロジェクトに参加することになる。白人至上主義者の父親オーギーのもとで育ったクリスは、差別的な発言や下品なジョークをところ構わず口にする始末に負えない男だが、一方で父の抑圧に苦しんでいて、父に強いられた訓練の過程で敬愛していた兄を殺してしまったことに苛まれている。けれどもプロジェクトの仲間と協力するうちに彼の孤独は癒されていき、クリスを殺そうとした父親を返り討ちにする。ここまでがシーズン1だ。
シーズン2。クリスは世界を救ったにもかかわらず、ヒーローとして評価されないことを気に病んでいた。そんな折、父親が隠していた量子展開装置によって別の宇宙に移送されてしまう。そこでは兄が生きており、父も優しい人格者で、クリスと父子三人でヒーローとして活動して、地域市民に慕われていた。さらにその宇宙のクリスには恋人もいて、自分にないものをすべて持っていた。クリスは事故的にその宇宙のクリスを殺してしまうが、自分が所属する世界に希望を見出せなかった彼は、殺したクリスに成りすますことにする。
クリスのキャラクターにはガン自身の背景が投影されていると言われている。ガンの父親は酒飲みで、妻や子供に暴力を振るう男だった。ガンもまたアルコールの問題を抱えるようになり、不遇時代にツイッターできわどいジョークを投稿していた。それが成功後に掘り起こされ、降板問題に発展する。けれどもキャストやファンからの支持の声もあり、無事復帰している。
こうした顛末は、仲間の協力でどん底から再生するという《ピースメイカー》や《ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー》シリーズの筋立てと重なる。クリスの差別発言もツイッターの告発事件を元にしているのだろう。また《ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス》(2017)では主人公が父親の身勝手な野望を打ち砕く話になっており、これも《ピースメイカー》と似ている。
このようにガンのフィルモグラフィは監督自身の自己セラピーの様相を示している。ガンの父親は2019年に世を去ったが、ガンが寄せた追悼文では「父はいい人間で、同時に悪い人間」だったが、「人生の最後に、父は最も素晴らしい人間に」なったと、父親を許しているようだ(町山智浩《町山智浩のアメリカスーパーヒーロー映画徹底解剖》)。
作品は成功しているし、本人も満足しているなら口を挟むようなことではないだろう。けれどもかつての《スーパー!》と比べると、これらの作品は本音を隠し、きれいごとで埋め尽くされているように感じる。
《スーパー!》の独自性は、行き過ぎた自警団であるフランクが神の啓示でスーパーヒーローになったと思い込んでいた点にある。《スーパー!》には父親の影は希薄だが、要するにヒーローというのがフランクの「父」なのだ。ガンはコミックオタクであり、またカトリックの家庭で育っている。フランクにとってヒーローとは憧れの「父」であると同時に、抑圧の対象でもある。自虐的でグロテスクな《スーパー!》にはそうしたガンの複雑な胸中が刻印されているが、その後の作品では「キャンセル」されているのである。
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他人を傷つける一方で愛されたいとも思っているクリスは、碇シンジとよく似ている。また自分を認めてくれない世界に「生まれてこなければよかった」から別世界の自分と成り代わるという発想や、マルチバースでの「クリス」の殺害は、クリスもまた反出生主義者であることを示唆する。ガン版《スーパーマン》でも、とあるキャラクターが自分そっくりな存在と戦う場面があり、ガンが自己否定というモチーフに取り憑かれていることがわかる。
そもそもエヴァンゲリオンやヒーローたちは、フランケンシュタインの怪物の影のもとにある。SF作家のブライアン・オールディスは、《フランケンシュタイン》をSFの起源と述べている。ロボットSFや人工知能を扱った先駆的作品というわけだが、その先には日本のロボットアニメ、そして《エヴァ》が控えている。またアイアンマンやウルヴァリンなど、アメコミヒーローやヴィランにも人造人間やサイボーグの例は事欠かない。これらを扱った作品にとって、《フランケンシュタイン》に込められていた反出生主義的思考は、時限爆弾のように内蔵されているのである。
もっともクリスは人造人間でもサイボーグでもない、ただ人一倍頑健なだけの男だ。けれども彼の偏った性格と暴力衝動は父親の歪んだ教育の賜物によるものでもあり、いわば父親による「人造人間」だとも言える。ガン版《スーパーマン》でも、過去作品と異なり、スーパーマンの両親の歪んだ思想が付与されていた。ガン作品の「子供」は、どれも仕立て上げられた「怪物」なのだ。
長いあいだ接触がなかった父親から突然エヴァのパイロットに指名されるシンジもまた、父ゲンドウにとって人造人間のようなものだったのだろう。実際にゲンドウがシンジ以上の愛情をもって接するパイロット・綾波レイは、ある種の人造人間でもあった。
ゲンドウやクリスの父親オーギーは、ヴィクター博士と同じように「父」としての責任を果たしておらず、それが怪物やシンジやクリスを苦しめた。けれども彼ら子供たちの立場から見た場合、「父」の向こうにこそ本質的な問題が控えている。「父」から見捨てられたとしても、社会が彼らを暖かく迎えていれば、生まれなければよかったと思うことはなかったろう。つまり彼らにとっては、自分たちを迎え入れてくれなかった世界にこそ根本的な問題があるのだ。
するべき使命を果たし、それが評価され、その過程で仲間もできるのであれば言うことはない。けれどもクリスのように使命を果たしても評価されなかったり、シンジのように使命を果たす過程で誰かを傷つけ、もしくは自身が傷ついたり、「怪物」のようにそもそも使命すら与えられない、つまり世界から役割を与えられないから、彼らは疎外感を抱くことになるのだ。
フィクションの話をしているのではない。ごく一般的な話だ。身を粉にして働いているのに賃金が低かったり、仕事の成果を誰にも認められることがない。社会に関わる過程で人を傷つけてしまうのではないかと悩んだり、逆に傷つくことに恐れてしまう。そして、そもそも自分の居場所を見出すことができず、どこにいても孤独である、そのような人々。
《スーパー!》にはそうした人間の鬱屈と暴発が刻み込まれていたが、その後のガン作品からはキャンセルされてしまった。《エヴァ》も同じで、《旧劇》にはあった他者への恐れが、《シンエヴァ》では失われている。そしてデル・トロ版《フランケンシュタイン》も、復讐の果てに見出される孤独な生の肯定が、和解劇に改変されてしまった。これらの作品は、不器用にしか生きられない人を「正しい」メッセージで抑圧してしまいかねない。
最後にデル・トロの《ナイトメア・アリー》(2021)という作品を取り上げておきたい。1930年代後半、流れ者のスタンはふと見世物小屋を覗く。ちょうどそこでは獣人が、半裸の薄汚れた姿で生きた鳥をむさぼり喰い、観客をどよめかせているところだった。見世物小屋で仕事にありついたスタンは霊媒師として成り上がるが、欲に目がくらんで暴走し、愛する女性も傷つけ、すべてを失い、ふたたび浮浪者に転落してしまう。見世物小屋に舞い戻ったスタンは、獣人の仕事なら世話してもいいと提案される。スタンは泣き笑いの表情を浮かべながら、「そいつはおれの天職ですよ」と受け入れる。
香具師の才能のあるスタンならば、ふたたび成功を掴むこともできるはずだ。だが自らの強欲の果てに最愛の女性を失った彼にとって獣人になることは、自己処罰であると共に、みにくい「獣」のような自分にふさわしい生きかただと悟ったのだ。
わたしにはデル・トロ版の《フランケンシュタイン》よりも《ナイトメア・アリー》のスタンのほうが、メアリーの《フランケンシュタイン》の意図に近いように感じられる。世間一般的な成功の条件とはかけ離れていても、「獣人」として生まれ直し、孤独に生きることのほうが、心の平安を得ることができるのだと。
同じように、他者とつながることを拒否し、周囲と傷つけ合い理解し合うことのない世界を選んだシンジもまた、孤独な世界を受け入れて、生まれ直したということなのだろう。「生まれてこないほうがよかった」と思い悩んでも、「生まれ変わる」ことはできるかもしれない。《ナイトメア・アリー》や《旧劇》は、そういったことを教えてくれるのである。
(2025/11/15)
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noirse
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