プロムナード|穐吉敏子へのインタビュー|能登原由美
Text by 能登原由美(Yumi Notohara)
写真提供:青山音楽記念館
残暑というには程遠く、夏の終わりの見えない日々が続いた9月半ば、ジャズ・ピアニストの穐吉敏子のコンサートが京都で行われた。95歳の今も、ニューヨークを拠点に演奏活動を続ける彼女の来日公演である。今回は、東京と京都の僅か2公演。当日は他に予定が入る可能性があり少し迷ったものの、やはりこれを逃すわけにはいかないと見切り発車でチケットを購入。結局もう一つの行事はなくなり、席も完売したと聞いて我が英断を誇ったその日がついにやってきた。
「次に何を弾くのだったか忘れてしまうのよ」と、笑いながら曲目を書いた小さな紙を見やる。かつては鍵盤の上を難なく疾走していた指はさすがに時折綻びも見られるようになり、うまく回らないときは舌を出しては肩をすくめた。だがひとたび音が乗ってくると、膝丈のスカートからスラリと伸びる足を上げ、体ごとグルーヴの渦に浸る。音楽をする悦びに満ちたその姿は相変わらず印象的であった。
最後に弾いたのは《HOPE》。彼女が自身のライブの締めに必ず演奏する定番の曲である。実は、私がこの曲を生で聞くのはこれが2回目だ。前回は2012年6月5日、広島の本願寺別院で行われた彼女のソロ・コンサートにおいて。主催したのは浄土真宗の寺院、善正寺の中川住職。和尚は熱心なジャズ愛好家で、定期的にジャズ・コンサートを企画し開催していた。同時に、彼女の作品の委嘱者でもあった。それが、私にこれらの公演に足を運ばせた理由でもあった。
住職の願い出により誕生した曲は、《ヒロシマ―そして終焉から》。タイトルから推測されるように、被爆地広島を題材に書かれたビッグバンドのための組曲で、2001年8月6日の原爆忌に広島で世界初演されたもの。終戦後も30年近くにわたりフィリピンのジャングルで抗戦を続けた小野田少尉に彼女自身の境遇を重ねた《孤軍》や、水俣病を題材にした大作《ミナマタ》など、社会や政治への関心が作品のモチーフになることの多かった穐吉だからこそ、原爆投下をテーマにした楽曲の創作を依頼したのだろう。その結果、3つの楽章、43分からなる大曲が生まれたのであった。
《HOPE》はその第3楽章として作曲されたものだ。広島初演を終えて彼女がニューヨークに戻った直後、9月11日にアメリカの同時多発テロが勃発。以降、必ずこの曲を最後に演奏するようになったという。さらに、のちに谷川俊太郎が詩をつけたことで歌曲にもなり、愛娘でシンガーのMonday満ちるの歌と穐吉のピアノとのデュエットによるCDが発売されたほか、アメリカでは合唱曲としても歌われているとのことだった。そのジャケットには、被爆から3日後の長崎で撮影された一枚のフォトが掲載されており、そこには焼け野原をバックに一人カメラに向かって微笑む少女の姿が写されていた。当初は原爆をテーマにした作品なんてできないと躊躇した穐吉を、創作へと踏み切らせた写真であった。
以上は、彼女から直接聞いた話である。とはいえ、私が本作の存在を知ったのは、初演後にリリースされたその録音のCDを通じて。13年前、彼女のコンサートが広島で行われると聞き、しかも知り合いの住職が主催するというので出かけることにしたのだった。当時(そして今も)、ジャズについてはありきたりの知識しか持たない私であったが、「穐吉敏子」といえば日本のジャズ界の草分け的存在であり、また女性奏者としては世界のパイオニアでもあることぐらいは認識していた。ゆえに、今から考えるとなんと大胆なことをしたかと思うのだが、万が一の可能性をかけて、その作品について直接彼女から話が聞けないかと住職に尋ねてみたのだった。すると驚いたことに、宿泊先のホテルで1対1のインタビューをさせてもらえるという。しかも公演日の午前か午後という選択肢まであった。可能だとしても、せいぜい付き人のいる楽屋で少しだけ話を聞かせてもらう程度だろうと考えていただけに、その鷹揚さには驚いたが、実際に会って話をすると、ゆったりとした構えで私のような名もなき研究者の質問にも真摯に答えてくれる寛容な人であることがわかった(ちなみに、彼女は付き人を持たないらしい)。一方で、「穐吉先生」と呼びかけた私に対し、即座に「『先生』は要らない」と答えるなど、どんな相手でも壁を作らず接してきたであろうことは、その後の会話に出てきたいくつかのエピソードからも読み取れた。予定していた1時間の会見はあっという間に終わり、最後の写真撮影にも快く応じてくれた。
その後、ICレコーダーに録音したインタビューの内容を早く公表せねばと思い続けてきたが、どのような形にするか迷っているうちに結局10年以上も経ってしまった。けれども、被爆80年の節目として、「ヒロシマ」の音楽に関する冊子を出す計画が持ち上がり、さらに、9月に京都公演があることを知った。これを逃すわけにはいかないと席を確保したわけだが、ここでも再び主催者に頼み込んでコンサートの翌日、京都を発つ直前に30分ほど時間をいただき、ホテルのロビーで彼女から話をうかがうことができた。今回は疲れているせいもあったのだろう、前回とは異なり決して饒舌とはいえなかったが、それでも会って質問に答えてくれる相変わらずの懐の深さには言葉もなかった。
「聴いた後に人がどのような気持ちになるかを考え、創作の際はいつも曲のおしまいから考える」とは、2回のインタビューの中で出てきた言葉だ。おそらく演奏も同じであろう。であれば、必ず《HOPE》を最後に弾くというその意図もおのずから明らかだ。聞き手がコンサートの後にどんな気分になるのか、どのような心持ちで家に帰るのか。そんな思いがあるからこそこの曲で幕締めとするに違いない。もちろん、「HOPE―希望」という言葉はありきたりかもしれない。とりわけ被爆直後の広島では、この言葉はやたら多くの歌に登場する。必ずしも常に本心から出たわけではなく、プレスコードのためにそう言わざるを得ない事情もあった。けれども、この2文字によって救われ、再び前に進むことができた人も確かにいたはずだ。彼女へのインタビューにおいても、「希望」という言葉が相応しい身近なエピソードがいくつもあった。この曲を生み出すきっかけを作った住職には大変感謝しているとも述べていたが、当の和尚もここまでになるとは予想していなかったであろう。
とはいえ、戦争にテロと、この曲を弾かずにはいられない出来事があったことも忘れてはならない。彼女が本作で演奏を終えるようになってから四半世紀近く。その間、テロは収まるどころか世界中で頻発し、ウクライナや中東情勢を見ても、状況は良くなるどころかさらに悪化しているように見える。この現状についてどう思うか。今回の短い会見ではそこまで聞くことはできなかったが、質問すれば13年前のように非常に長い答えが返ってきたに違いない。その返答も含めた当時のインタビュー内容については、人柄が直に感じ取れるよう、できる限り生の「声」として公表したいと考えている。
(2025/11/15)





