読響アンサンブル・シリーズ第47回《北村朋幹プロデュース》|丘山万里子
2025年10月15日 TOPPAN ホール
2025/10/15 TOPPAN Hall
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 藤本崇/写真提供:読売日本交響楽団
<曲目・演奏> →foreign language
八村義夫:星辰譜(1969)
林 悠介vn、西久保友広 vb、 野本洋介perc、北村朋幹pf
藤倉大:シークレット・フォレスト(2008)
北村朋幹 cd
林悠介、石原悠企 、伊東真奈 、 大澤理菜子vn
正田響子 、 森口恭子va
唐沢安岐奈 、 山梨浩子vc
石川浩之cb、佐藤友美 fl、北村貴子ob、金子平 cl、武井俊樹 fg
日橋辰朗、上里友二hr、尹千浩 tp、青木昂 tb
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武満徹:雨の樹 素描(1982)
北村朋幹pf
西村朗:沈黙の秋(2014)
北村貴子ob、北村朋幹pf
細川俊夫:ピアノ五重奏のための〈オレクシス〉(2023)
林悠介 、石原悠企 vn、正田響子va、唐沢安岐奈vc、北村朋幹pf
読響精鋭メンバーが集まっての室内楽シリーズ、今回はピアニスト北村朋幹プロデュースで邦人作曲家の作品をずらり並べた。
私が北村を初めて聴いたのは2017年《シュニトケ&ショスタコーヴィチ プロジェクトⅠ―室内楽》@TOPPANホールでの2曲だったと思う。新鋭山根一仁(vn)のショスタコーヴィチ「ソナタ」のピアニストとして。もう1つはシュニトケ「ピアノ五重奏曲」で、モルゴーア・クァルテットと。いかにも若者同士らしい覇気に満ちた山根とのデュオぶり、古豪モルゴーア相手に臆するところない颯爽たる演奏に、やんやと手を打ち鳴らしたのであった。
ここ10年ほど、若手がソナタの「伴奏」(そもそも伴奏という言い方自体がおかしい)や、室内楽に積極的に取り組むのを頼もしく見てきたが、ああ、日本にもやっと音楽のわかるピアニストが出てきた、時代は変わったのだ、とはっきり教えてくれた最初のピアニストの1人だ。
自分で感じ自分で考え、人を感じ人を考え、自分を聴き人を聴き、ソロであれ誰かとであれ、自在に音楽像を描く。歌曲「伴走」でも歌手をリードするほど類稀なる音楽性を発揮。内なる知情意の三角形の3つの頂点を結ぶ柔軟な弧線は、常に音楽の生成とともに生動する。
当夜のプログラムはそんな、音楽そのものである彼の在り方を十全に発揮するべく組まれていた、と思う。
冒頭、八村『星辰譜』はvn, vb, t.bell, pfの編成。代表作『錯乱の論理』(1975/pf, orch)への足掛かりの位置にあるが、作曲時、彼はチューブラー・ベルを知らない。楽器図鑑の写真から、音と奏法を想像して書いた。次曲の藤倉が演奏家とのコンタクトを大切に、楽器の可能性をさまざまに論議しながら制作、ゆえ演奏家から愛される作曲家であることを思えば、情報量の差より創作姿勢の相違が明らかだろう。『エリキサ』(1970/fl,vn,pf)のワークショップで八村はヴァイオリンの演奏が非常に難しく奏者が苦しくて顔を歪める、そのサディスティックな効果、視覚的興奮を説明、顔を引き攣らせて実演してみせた。「僕はショッキングなものしか書きたくない」と言って(1980@草津)。
ミステリアス、ときおり痙攣連打のチューブラー・ベルの長いソロ。宇宙というより異界に近く、ヴィブラフォーンが硬質な打音で絡む。うわんうわん倍音のうなりが中空を蛇腹のごとく膨らませ、その圧に貧血気味になっているところへヴァイオリンが怪しげな女の声のごとく足元にまとわりついてくる。つい義太夫浄瑠璃『桂川連理柵』(淀の乱杭にかかった情死体)を模した『しがらみ第一』(1959/f,vn,sop,pf)を想起、八村はどうあっても八村だ、と思う。ピアノ・ソロも低音衝撃打音に煌めきクリスタル高音がばら撒かれ、倍音嫋々かつ切れ味鋭い音景。この音の設計に貫かれているのは尋常でない情念の表出たる「主情わたくし音楽」(八村)。日本わななき表現主義と言えようか。
であれば、藤倉『シークレット・フォレスト』がどう聴こえるか。
舞台上に弦、場内に管を分散配置(森)、客席中央にファゴット(逍遥する人)というコンセプト。指揮者北村が腕を振り下ろす。密集した弦の音塊が鋭く響き上がる。ユニゾンや逞しいボウイング、ザクザックと刻まれるリズムにこちらも痙攣トレモロなどで大地振動のごとく。
と、北村、客席へ振り向き、聴衆一斉に奏者の在所へと目をむけ、発せられる「秘密の森」っぽい管の囁きに、ほほう、みたいな空気。鳥が囀ったり、虫が飛んだりと弦管交代シーンが続き(北村、忙しい)両者混交、そうしてお待たせ主人公ファゴット(非常に魅力的な吹奏)が悠然と姿を現す。人を取り巻く自然の多様なざわめき。管奏者はレインスティックも用い、終盤、騒然たるピチカートの滝が雪崩れたのち、減衰、静寂へと吸い込まれる。
この種の古典的サラウンド設営、聴者の位置によって聴こえるものが異なり、それを楽しんで、とプレトークで言っていたが、私はつい北村のアクションに目がゆく。昨今、弾き振りも含め指揮するピアニストはけっこう居るが、北村の棒捌きはなかなかスマートであった。
八村、藤倉いずれも演奏時間は似たようなものだが、後者を長く感じたのは響きの持続設計(音場設計でなく)の強度の問題ではないか。
休憩を挟みピアノ・ソロ、武満の小品『雨の樹 素描』。
藤倉の秘密の森の逍遥と溶暗から、雨中の樹へと視線は巡る。葉先から溢れる雫、泡立つ水たまり、打ち込まれる重低音…北村の音色のパレットの豊饒と繊細。
ここにドビュッシー的武満抒情美を差し挟む、絶妙の配置だ。
武満とは体質的に別物だった西村『沈黙の秋』(ob,pf)。西村は管を最も自分の「素」の声と感じていたと思う。『太陽の臍』(1989)での篳篥とオーケストラでの篳篥はその典型で、交響作品でも要所にそれが聴こえる。
本作はその「素」の声、オーボエの連綿たる息の長い旋法がピアノにさまざまに彩られうねりうねって吹き通ってゆく。ピアノのトレモロやドローンの響きに乗って、彼方へ、永遠へとどこまでも手を伸ばしてゆくような果てしなさ。その執拗さが、ある意味聴き手に不安と異和を感じさせ、同時に異界への誘(いざな)いとなるわけで、ピアノの地底に引き摺り込まんばかりの重低音と倍音の長い尾はいっそうそれを増幅する。
ここでのオーボエ、湿気を含んだ豊かな響きの流れを見事に創出、ピアノも鮮烈であった。
ついで西村と双璧の細川の近作『ピアノ五重奏のための〈オレクシス〉』(2023)。アルディッティ弦楽四重奏団結成50周年を記念、北村朋幹との共演(2024)を想定しての委嘱作。西村がアルディッティにあて書きした四重奏シリーズの持つ超絶技巧満載、時にヒンズー教的物語性、時に破天荒、さらにはある種のエンタメ性に対し、こちらはピアノが入ることでパーカッシヴな打鍵と陰影豊かな音脈の揺らぎとが細川らしい時空間を形成する。弱音器による弦の幽けき気配、流れにあっての息遣い(間)の独特の按配はまさに円熟職人芸。
オレクシスとは本能的欲求とのことだが、西村・細川の「本能」もまたほぼ対極。リアル武満を1970年万博で見聞、多大な影響を受けた両少年の行手は分かれ、西村は藝大で適応不全、細川も東京に慣れずそそくさとユン・イサンのもと、ベルリンに。適応不全はヘテロフォニーを発見、汎アジアから世界海へ潜り、細川は欧州前衛で確たる地位を築いた先達ユン・イサンを継ぎ国際舞台に躍り出た。というのが一応の図式だが、誰しも還暦を過ぎると「本能」への着火が難しい。先般のオペラ『ナターシャ』で新領域へと挑んだとされるが、そこにどれほどの切実な「欲求」があったか。本作にも似たような感慨を持った。
さて、一連の組み立てに私が見た景色。
八村、西村の表現のおおもとには狂気が潜み、あまねく古代の芸能・異能・異端の根源に連なる系譜。武満、細川、藤倉は変化する時代の意匠に応答しつつそれぞれの立ち位置・表現を得てゆく系譜。
どちらがどうというわけではなく、そもそも表現の歴史はこの両者が前後左右上下しつつ渾然一体、滔々と流れゆく大河ではないか。いずれもが、大河の「歴史」への自覚、自分の居場所、表現法を保持しつつ、個々の細胞体として互いに有機的に絡み合い動かしてゆく、そんな風景に思える。
三善晃がこんなことを言っていた(『波のあわいに』春秋社p.142より)。
僕が「八村さんの作品はいいね」と言ったら、彼(武満)も「うん、いい」 と、「だけど八村さんの作品は、西洋ではモテないのね。」と。
そこに三善は武満の「世界=西洋社会」を見たわけだが、その図式は細川、西村で終わった。彼らが映した『樹の鏡 草原の鏡』(武満著)はもはや失せ、向き合わざるを得なかった「わたくし」と「誰か」も溶け、藤倉世代の創意工夫は「世界=いろいろ」の多様切片とその編集による共有作業に近かろう。
三善はまた「共通」と「共有」の使い分けを「個」と「歴史」の問題と語っていたが、私たちが今日、日常に「共有」するもの、こと(これ、共有しま〜す、みたいに)を思うなら、私たちに共通するものとは?私たちが共有しうるものとは?の問いが浮かぶ。
サラウンド設営が擬似自然でしかないように、「個」もまた擬似自己存在の幻想であるとして……。
だが、大河の水底も河面も動態としてのありようは太古から今まで、泰然と変わらない。
北村が見せてくれたのは、そんな問いをも含む音景だった。
日本にも音楽のわかるピアニストが出てきた、は、私にとってはその意味。
奏者もまた、常にこの問いに対峙していようから。
読響メンバー各シーンでの管弦打、白熱アンサンブルには拍手を。
(2025/11/15)
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Conductor, Piano = TOMOKI KITAMURA
YOSHIO HACHIMURA: Seishin-Fu / Constellation for Violon, Vibraphone, Tubularbells and Pianoforte
DAI FUJIKURA: Secret Forest
TORU TAKEMITSU: Rain Tree Sketch
AKIRA NISHIMURA: Silent Autumn for Oboe and Piano
TOSHIO HOSOKAWA: Oreksis for Piano Quintet








