Opus One : Live @ Hakuju Hall vol.7|水谷晨
Opus One : Live @ Hakuju Hall vol.7
2025年10月3日 ハクジュホール
2025/10/3 Hakuju Hall
Reviewed by:水谷晨(Shin Mizutani):Guest
写真提供:Hakuju Hall
<演奏> →foreign language
上村誠一 : ct、松下倫士 : pf、comp
<曲目>
オズヴァルト・フォン・ヴォルケンシュタイン:心と気、体と魂、そしてわたしが持つもの
松下倫士(詞:まど・みちお):うたを うたうとき
面川倫一(詞:吉原幸子):歌曲集「点滅する青」
面川倫一(詞:新川和江):わたしを束ねないで
〜〜〜
クィルター:《3つのシェイクスピアの歌》Op.6
(来たれ 死よ/愛しい人よ/吹け 冬の風よ)
ヴォーン・ウィリアムズ:生命の家(詞:ダンテ・G・ロセッティ)1. 愛のまなざし/2. 沈黙の真昼/3. 愛の吟遊詩人たち/4. 心の港/5. 愛の死/6. 愛の最後の贈物
(アンコール)
面川倫士、(詞:吉原幸子):むじゅん(カウンターテナー版初演)
中田喜直、(詞:渡辺達生):うたをください
日本語・英語・ドイツ語が交差する一夜。上村誠一(ct.)と松下倫士(pf., comp.)が奏でる声とピアノの音響に支えられたこの演奏会は、作品配置が一つのナラティブとして機能していた。
冒頭、フォン・ヴォルケンシュタインの《心と気、体と魂、そしてわたしが持つもの》(原題 “Herz, Mut, Leib und Seele”)に始まる系譜は、中世の祈りを蘇らせるのみならず、のちに続く日本語歌曲と英国歌曲の語感—音価—呼吸を先取りする序章として作用した。ハクジュホールの残響は過剰に伸びない。ゆえに母音の配列、子音の立ち上がり、語尾の減衰までが批評的に露出し、歌手の審美がそのまま聴取の審級となる。
松下《うたを うたうとき》では、まど・みちおの語感に見事な曲付けが行われていた。松下の和声運動は、その余白を埋めず、むしろ仄かな陰影として聴き手の内部へ差し込む。上村は発声を誇示せず、語の骨格を損なわぬ明晰な母音形成で、行間に潜む震えを露わにした。
《点滅する青》《わたしを束ねないで》へ連なる面川倫一の連作は、詩それ自体の持つテクストとしての強度と旋律の優美な動きが織り合う場であり、上村のレガートは、詩が持つ呼吸の連なりを巧みに「歌」へと昇華させる。松下の左手は時として重く詩の韻律に沈潜し、右手は詩の行間に微光を射し入れる。二人は「言葉—声」を二項の連鎖の弁証法として捉え、音楽をテクストの注釈へ還元せず、テクストの未来形として提示した。
休憩後、クィルター《3つのシェイクスピアの歌》では、英詩の子音群が輪郭を与え、上村の明度の高い倍音がピアノの内声と相互干渉して立体像を結ぶ。
《生命の家》に至ると、ロセッティの世界観がサイクル全体の形相を規定する。第1曲は世界を照らす光そのものの様であり、第2曲においてその光は静謐さを増し、第3曲では物語性が螺旋を描く。第4曲〈心の港〉における松下のペダリングは、言葉の余白を艶やかな霧に変換し、第5曲で死の輪郭が近づくと、上村はヴィブラートの幅を刈り込んで、音価の短縮そのものを「不在の比喩」として突きつける。終曲は、消えゆく者から残される者への静かな光の手渡しとでも言おうか。見いだせたのは、テクストと音楽の見事な揚棄である。
冒頭に挙げた「ナラティブ」を貫徹するものとしてここで筆者が想起するのは、白井聡『未完のレーニン』に描かれる二つのレーニン像である。すなわち、目的のために手段をためらわぬ徹底したマキャベリストと、「クレムリンの夢想家」と呼ばれる理念の求道者。今宵の二人は、その両義性を音楽へ移植してみせた。
和声構造と楽曲構成への深い理解に支えられた松下のピアノは、情念を制度化する「術」の側に立つ。打鍵の角度、減衰の管理、フレーズ末尾の呼吸までが冷徹な設計思想に貫かれ、音は層をなし、時間は建築化される。
他方、上村の歌唱は理性の外側にある「熱」の側に属する。母音の開閉、子音の閃き、あえて制御を強める瞬間の放射—それらが理念の可触化をもたらし、夢想の倫理を聴き手の身体へ放射する。両者の緊張が交差する点で、音楽は単なる抒情を超え、政治神学的な濃度に達した。
また、この演奏会全体を包む影として、ベックリンの連作絵画『死の島』を挙げずにはいられない。相容れぬ二人の思想家—レーニンとヒトラー—が同じ、絵画中央に配置された黒い糸杉の森(西洋絵画の伝統において糸杉は「死」のモチーフだ)に魅了されたという逆説は、「死」という審美の中性化を露呈させる。今夜のプログラムもまた、言語や時代の差異を超えて「死」の想像力に被われていた。
ヴォルケンシュタインの祈りは中世的来世観を、面川の詩学は近現代日本の自己分裂を、英国歌曲は近代イングランドにおける(エンゲルスが詳細に記した様な)シーシュポス的な苦役と生の消費に支えられた上澄みの廃墟を、それぞれ異なる角度で照らす。だがそれらは単に「耽美」へ落とし込まれるだけではない。松下の設計は過剰な感情を削ぎ、上村の感受は冷たすぎる抽象を温め、両者は「美の危険」を引き受けたうえで均衡点を見出す。
アンコールは二曲。《むじゅん》(面川倫一/詞・吉原幸子、カウンターテナー版初演)は、テクストとメロディーとの「矛盾」と、先述した「死」へのリビドーこそ歌の原動力であることを示した。
《うたをください》(中田喜直/詞・渡辺達生)は、求められる歌を与えるという逆説を優しく引き受け、客席の沈黙にもう一つの呼吸を与える。小さな余韻が長い時間を呼び寄せ、夜は熱狂的な拍手と共に情熱的に閉じられた。
結局のところ、この公演におけるナラティブは単に作品を並べたのではなく、詩と声とピアノが「死」と「夢想」の間に架けた橋であった。松下のマキャベリズムは音の政治学として、上村の夢想は音の存在論として、互いを鍛え上げた。
耽美は逃避ではない。最後の和音が消えたあと、なお身体の奥で持続する寡黙な震えが、その証左である。
(2025/11/15)
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水谷 晨( Shin Mizutani)
作曲家・修士(音楽)。1991年東京都出身。ロッテルダム音楽院作曲科およびデン・ハーグ王立音楽院ソノロジー研究所にて研鑽。チッタ・ディ・ウーディネ国際作曲コンクール最優秀賞(2018)、アカデミア・ムジカ・ウィーン国際音楽コンクール第1位特別賞(2019)、ルチアーノ・ベリオ国際作曲コンクール・ファイナリスト(2023)など国内外で受賞多数。現在、全日本ピアノ指導者協会(ピティナ)にてピアノ作品のコンチェルトやオーケストラ編曲を担当。
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<Performers>
Seiichi Kamimura , ct/Tomoki Matsushita, pf & comp.
<Program>
von Wolkenstein: Herz und Mut, Leib und Seele …
Matsushita: When I Sing a Song (text by Michio Mado)
Omokawa: Blinking Blue (text by Sachiko Yoshihara)
Omokawa: Do Not Bind Me (text by Kazue Shinkawa)
Quilter: Three Shakespeare Songs, Op.6
Vaughan Williams: The House of Life (text by Dante Gabriel Rossetti)
(Encores)
Omokawa: Contradiction (Mujun) — first performance in countertenor version (text by Sachiko Yoshihara)
Nakada: Please Give Me a Song (text by Tatsuo Watanabe)
