パリ・東京雑感|地球を覆う「邪悪な情念」に毒されないために、歴史をふりかえろう|松浦茂長
地球を覆う「邪悪な情念」に毒されないために、歴史をふりかえろう
Text by松浦茂長(Shigenaga Matsuura)
トランプ大統領は、暗殺を狙った銃弾が耳をかすっただけで命拾いしたので、「神に選ばれた聖なる指導者」になったが、若者たちをごっそりトランプ教(MAGA)に改宗させた、カリスマ活動家チャーリー・カークは、暗殺によってMAGAの殉教者にされた。聖人を汚す冒瀆は、言論の自由を誇るアメリカでも許されない! ABCテレビの看板番組の司会者が、「(トランプ側は)この事件から政治的利益を得ようとあらゆる手段を講じている」と発言しただけで、たちまち番組がつぶされるのである。(1週間後に復活したが)。
この程度のコメントで、国中大騒ぎになるとは! アメリカはとてもコワイ国になってしまった。事態はもっと悪くなりそうだ。
よく「分断」という言葉が使われるけれど、分断は昔もあった。ベトナム戦争に反対する若者たちの闘いは、遠く日本にも共感の波を巻き起こしたし、イラク戦争をめぐっても激しい論争があった。でも、当時といまはまったく違う。何か恐ろしいものが、政治・社会に瀰漫してしまったのだ。『ニューヨーク・タイムズ』のコラムニスト、デービッド・ブルックスは、その恐ろしいものを「ダーク・パッション」と呼んでいる。「邪悪な情念」とでも訳せるだろうか。
ケネディー大統領やキング牧師には、人の心に夢や希望を吹き込み、奮い立たせる力があった。「明るい情念」をかき立てる指導者だ。いまは、どこを見ても憎しみ、怒り、恐怖、恨み、支配欲をかき立てる指導者ばかり。移民を犯罪者と決めつけて追放し、「性はひとつしかない」と叫んでLGBTを迫害すれば、喝采を浴びる。ひとびとは「暗い情念」に燃えたがっているのだ。日本のように外国人が極端に少ない国でも、外国人への憎悪をふりまいた参政党は選挙に成功したのだから、「暗い情念」渇望は、よほど強力な伝染力を備えているに違いない。
チャーリー・カークの追悼集会で、ドキッとする場面があった。
カーク夫人が、夫を殺した犯人を「許します」と宣言し「なぜなら、キリストはそうなさったからですし、チャーリーもそうしただろうからです。憎しみへの答えは憎しみではありません。福音書が教えてくれた答えは愛。どんな場合も愛です。私たちの敵に対しても愛。私たちを迫害する者に対しても愛です。」と訴えた。
追悼集会にふさわしい、夫人の寛容のメッセージは喝采を浴びたのだが、次に演壇に立ったトランプは、「私は敵を憎む。エリカさん(カーク夫人)にはすまないけれど」と、憎悪を説いた。トランプにとっては、盟友の暗殺に対する復讐を誓うべき集会!「暗い情念」を燃え立たせる絶好の場に、明るい寛容の光がさすのは到底許せなかったのである。そして、聴衆はトランプの憎悪のメッセージにも喝采を送った。
地球が「邪悪な情念」におおわれたいま、思い出すのはモスクワのクーデター未遂。ひとびとが「明るい情念」に満たされ、結集するとき、どんなすごいことが起こるかを教えてくれたからだ。
ゴルバチョフ時代のモスクワは、百花斉放。共産党を赤鬼に擬して、からかうミュージカルやら、好き勝手な言論・表現があふれる素敵な町だった。月に1~2回は5万人とか7万人がクレムリン近くまでデモして、「ゴルバチョフがんばれ」を叫んだ。デモのリーダーに会いに、町はずれの小さなアパートに行くと、あちこち穴の空いたセーターを着た物静かなユダヤ人が、「デモにはかならずKGBが紛れ込んでいて『クレムリン突入』とか、跳ね上がりを策動します。胃が痛くなりますよ。」などと裏話を聞かせてくれた。彼ら「民主ロシア」がみごとに数万の行進の秩序を保っていたのである。
ロシア人の日常は表面平穏に見えても、その底に火山のマグマのような、巨大な恐怖のエネルギーが潜んでいる。だから何かショッキングなでき事がおこり、心に亀裂が生じれば、恐怖のマグマが激しい勢いで噴出する。1991年のクーデターのときのこと。わが支局のカメラマンは、アフガニスタンの戦場を経験し、モスクワでも銃弾の下で平気でカメラを回す勇士だが、クーデター側の戦車が大通りに現れると涙が止まらなくなり、その夜倒れ、肝心のクーデターの3日間、臨時のカメラマンを頼まざるを得なくなった。
女性の助手はクーデター期間中持ちこたえたものの、KGBの創設者ジェルジンスキーの像が倒されるのを見て、吐き気を催してうずくまり、仕事どころではなくなった。ゴルバチョフの改革のおかげで、ようやく西欧のような人間らしい生き方ができそうだと希望を持ち始めたところに、スターリンと粛清と強制収容所の亡霊がよみがえり、心も体も凍り付いてしまったのだ。
ところが、クーデターに抵抗する民主勢力の砦となったロシア政府庁舎(ホワイトハウス)周辺に行くと、人々の表情は驚くほど静かだった。ある男は「ニュースを聞いてから、今日は一日中、足がガクガクして震えが止まらなかった。でもバリケードの中に来たら怖くなくなりました」と告白した。
若い将校が足早に戦車に近づき、兵士を説得すると、戦車は一台また一台と民主勢力側についた。クーデターが成功すれば、彼らは反乱罪で処刑されるかもしれないのに、あの勇気はどこから来たのだろう。バリケードの外は、恐怖のため心も体も麻痺したような有様なのに、バリケードの中は静寂が支配し、自然な落ち着きが感じられた。ロシア人は整頓とか清潔とは無縁の人たちだと思い込んでいたが、バリケードの中はきれいに掃除され、市民から贈られた食料品が、ところどころにきちんと積み上げられ、だれも手をつけない。だれも命令しないのに、すべてが整然と流れて行くように見える。
ある作家はこの時のことを「人は自分自身より大きなもの、自分自身より確かなものと一体になった」と表現した。歴史のある特別の瞬間、人間は自分自身よりはるかに高められ、自分にはない勇気を持ち、静かな確信のなかに立つことができる。その特別の恩寵のときにめぐまれると、歴史は新しいページを開くことができるのではないか。あのバリケードの中の秩序=静寂と同じものを、ぼくは後にも先にも見たことがない。(パリ・東京雑感|歴史に取り憑かれたプーチン大統領|松浦茂長 |)
あの非日常的な静けさが、「明るい情念」のしるしではないだろうか。敵を憎悪し、排斥する「暗い情念」によってだって、大きなもの強いものと一体化する興奮は味わえるかもしれないが、あの静寂、落ち着きはあり得ない。ざわつきとイライラした顔しか連想できない。
あの3日間を、闘いの当事者として生きた男の言葉をご紹介しよう。教会の合唱指導をしていると自己紹介して支局を訪ねてきたセルゲイ・バクダノフスキーは、熱っぽい目をした小柄な若い男だった。ちょうどロシア正教復興の時期だったので、宗教をテーマにした取材に協力してもらううち、仕事を離れて音楽や文学について語り合うようになった。
クーデターの3日間、彼はホワイトハウスにたてこもって、抵抗運動を組織し、何回かファックスでわが支局にも情報を送ってくれた。クーデターが片づき、早速支局にやって来たバクダノフスキーは「これまで僕はロシア人であることを恥じていたけれど、今はロシア人を誇りに思います」と、泣き出さんばかりの勢いだった。いつもの皮肉のきいた雄弁はどこへやら、「すごかった。すごかった」を連発するばかりで、なぜロシア人であることに誇りが持てたのか、一向説明にならなかったが、気持ちは良く分かった。「明るい情念」に包まれる確かな連帯を生きた人は、疑うことのできない「誇り」を獲得するのだ。
KGBと軍と警察のトップが企てたクーデターは、理屈の上では最強。負けるはずはないのに、なぜ食い止めることができたのか? なぜ素手で戦車に向かうことができたのか? 謎を解くカギは、あの奇跡的な「静寂」ではないかと思う。歴史を動かすのは必ずしも力ではない。人々のこころが本当に一つになるとき、圧倒的に強い敵も無力化される。
たとえばフランス革命を成功させたのも同じような「静寂」だったのではないだろうか。
バスチーユの要塞は、何日も砲弾を撃ち込んでも持ちこたえる堅固な作りで、弾薬もたっぷり備えてあった。ろくな武器も持たない市民がバスチーユに向かったところで、塔の上から皆殺しにされるか、付近一帯の街が瓦礫の山にされるかが落ちだったはずだ。にもかかわらず……。ミシュレはこう書いている。
朝の光とともにパリの上に一つの考えが輝き、そして、すべての人が同じ光を見た。人々の心のうちに一つの光がさし、ひとりひとりの胸に一つの声が聞こえた。
「行け、そしてバスチーユを攻略するのだ!」
それはできっこない、とほうもない、口にするのもおかしいことであった……。にもかかわらず、すべての人がそれを信じていた。そしてそれはなされた。(ミシュレ『フランス革命史』)
すべての人の心に同じ光がさすとき、すべての人の心は一つになり、恐怖はどこかに消えてしまう。「明るい情念」が、みんなの心をのみ込むのである。それはどんな光だったのか?
この夜(7月13日夜)、歴史はよみがえった。人民の復讐本能のなかに、長い苦悩の歴史がよみがえった。幾多の世紀のあいだに、沈黙のうちに苦しみ、そして死んでいった父祖の魂が、息子たちのうちによみがえり、声を発したのである。(中略)
未来も過去も、ともどもに同じ答えをした。ともどもに叫んだ。行け!
そして、時間の外にあるもの、未来と過去の外にあるもの、不動の人権もまた、同じように言うのであった。正義という不滅の感情は、男たちのさわぐ胸に青銅のささえをあたえた。そして言った。
「案ずることはない。心を静かに行くがよい。死のうと勝とうと、わたしはきみとともにいる!」(同上)
「心を静かに行くがよい。」バスチーユへ向かう行進には「静寂」があった。なぜなら、彼らは父祖の願いを担い、啓蒙思想家によって説き明かされた思想の正しさに支えられ、心を一つにすることができたから。
クーデターの3日間のモスクワにも、バスチーユと同じ「静寂」が生まれた。もっとも、モスクワであの超自然的な「静寂」に出会わなければ、ミシュレの「心を静かに行くがよい」の意味は理解できなかったに違いない。確かに、あれが歴史の「恩寵のとき」のしるしなのだ。
しかし、歴史を通じてまれにしか起こらない「恩寵のとき」をどう記憶するかとなると、ロシアとフランスには天地の差がある。フランス人はバスチーユを最大の国の誇りとして、大切に記憶し、その日を華麗な軍事パレードで祝う。逆にロシア人はあの偉大な3日間を呪い、「民主」という言葉を死語にしてしまった。(進歩的知識人も「民主」という言葉を忌避する)。民主化後の混乱が、あの3日間をゼロにしてしまったのだ。
ホワイトハウスで闘ったわがバクダノフスキーも、有頂天の熱狂が失望に変わるのは早く、半年後には「新聞を読むのが恐ろしい。だれもかれも金をもうけることしか考えなくなった」と嘆き始めた。失望が病気を招いたのか、癌に罹ったバクダノフスキーはますます痛烈な毒舌を吐くようになり、最後に会ったときは、「死と臨終の苦しみは怖くないが、祖国を許せないまま死んで行くのがつらい。こんな国を子供たちに残すのかと思うと、罪の意識にさいなまれる」と言っていた。
フランス革命だって、偉大な日々の後、恐怖政治、ナポレオンの独裁、王政復古が続いたではないか。でも大勢がギロチンにかけられたからといって、そのためにバスチーユを呪ったりしない。歴史に特別の光がさした瞬間の思い出は、たとえそれに続く歴史がいかに血塗られたものになろうと、語りつがなければいけない。歴史の「恩寵のとき」は、方向を見失いがちな人類にとって、取り替えのきかない道しるべなのだから。
地球全体が「邪悪な情念」で覆いつくされそうな今、自国の歴史の「恩寵のとき」を確かに記憶している国は幸いだ。それにくらべ、不幸なのはロシア。哲学者タチアーナ・グレゴリエーヴァさんは「ロシアには歴史がない。過去に学ぶことができない民なのです。」と嘆いていたっけ。
(2025/10/15)





