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プロムナード|ウロボロスの蛇|藤原聡

ウロボロスの蛇

Text by 藤原聡 (Satoshi Fujiwara)

最近文章が書けない。

いや、このMercure des Artsには現実として欠かさず書いてはおり、本業においてもだ(そちらも音楽関連、評論ではないが)。だから事実として書いていないのではないが、意識として「書けない」。どういうことか。

当然ながら表象と現実は異なる。表象は現実の一部ではあるが、その現実とやらも対象の可能態のある現れであるから内実は無限大である。

だから、何かを書くということは対象をどう捉えてどう切り取ってどう論理展開させてどうレトリックを用いるかという話であるが、前はその辺りのことをさほど意識せずに行っていた。

ところがだ、ここ最近はどうも筆が重くなるのを避けられない。理由はある意味で単純な話で、1つは自身の知力と感性の限界を感じ、対象の本質に切り込めているのかの疑念が強くなってきていること。1つはそれに付随するが他者に晒すに値するような文章がアウトプットできているのか、ということである。

公開を前提としない文章がある。自分自身のための覚え書きの類い。あるいはSNSにおいて匿名性が担保された状況での公開。後者はまだしも分からなくはないが、前者ですら書く意識は後退する。

それでも何かは書きたい、対象を自分なりに把握したい、整理したいという欲望は減退しないのだからこの分裂が悩ましく始末が悪い、い っそのこと何かを書くという面倒を一切合切やめてしまえば気が楽になるというものなのだがそうも行かぬ。

この文章も己の醜態を晒しているようなものだが、そこには露悪趣味的なものもあるようで、または何かを書いている人の共感をいささかなりとも期待しているような気もする。書けなさそれ自体を書く題材にするというのもまた常套手段であり、となればこれもまたよくある平凡な文章ということになる。

天才ではないのだから模倣から何らかのヒントを得るのはいかにも自然な発想で、今さらながらこんなことを自分に問うているのもどうなのかと思わないでもない。

車谷長吉

ここまでの自己開陳、なにやら私小説的な様相も呈して来たが車谷長吉のように私小説と見せかけて私小説ではない「偽私小説」を平然と発表していた御仁もおり、さてこの文章はどうなのだろう。ビュフォンの有名な言葉「文は人なり」、半分は正しいが半分は間違っている。

内田裕也

ところで松尾貴史はYoutubeで「松尾のデペイズマンショウ」なるチャンネルを開設しており、そのコンテンツに「酒場の快人たち」というシリーズがある。松尾は内田裕也にあの独特の声と口調で「最近文章が書けなくなったんですけどどうしたらいいっすかね」(松尾のモノマネがまた絶品)と出し抜けに問われ腰砕けになった話を披露している。「知らん知らん、そもそも文章書いてたことも知らんし僕に言われても(笑)」

その後内田裕也は再び書けるようになったのかがずっと気になっているのだが。

(2025/8/15)