東京交響楽団 第732回定期演奏会 ブリテン『戦争レクイエム』|齋藤俊夫
東京交響楽団 第732回定期演奏会 ブリテン『戦争レクイエム』
2025年7月21日 サントリーホール
2025/7/21 Suntory Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by ©N.Ikegami/写真提供:東京交響楽団
<演奏>
指揮:ジョナサン・ノット
ソプラノ:ガリーナ・チェプラコワ
テノール:ロバート・ルイス
バリトン:マティアス・ウィンクラー
合唱:東響コーラス
合唱指揮:冨平恭平
児童合唱:東京少年少女合唱隊
児童合唱指揮:長谷川久恵
東京交響楽団
コンサートマスター:グレブ・ニキティン
<曲目>
ベンジャミン・ブリテン:『戦争レクイエム』
I.レクイエム・エテルナム(永遠の安息を)
II.ディエス・イレ(怒りの日)
III.オッフェルトリウム(奉献誦)
IV.サンクトゥス(聖なるかな)
V.アニュス・デイ(神の小羊)
VI.リベラ・メ(われを解き放たせ給え)
「祈り」とは何であろうか? 剣と魔法の世界の物語ならば、祈ることによって人の傷が治癒されたり、はたまた死者が蘇生することもある。だが、我々の生きるこの現実世界の「戦争」=「殺戮」に対して「祈り」とはどんな行為でどんな意味があるのだろうか?
「レクイエム・エテルナム(永遠の安息を)」、全曲の冒頭、密やかな合唱で“Requiem aeternam dona eis, Domine: ”(永遠の安息を彼らに与え給え、主よ)”et lux perpetua luceat eis”(彼らが上に永久の光をば照らし給え)という神への「祈り」が歌われ、さらに2階ホール外のバンダの児童合唱による「汝、わが祈りをきき給え、もろ人、汝が許へ来たるべし」という清澄な「祈り」が重ねられる。
だが、その後に責め立てるように厳しいテノール独唱で「家畜の如く死んで行く人々をとむらう鐘とは、ただ、鉄砲の恐ろしい怒りだけ」と「戦争」の「現実」が歌われる。先の「祈り」の美しさに対して「現実」の(少々ショスタコーヴィチ的な)嘲笑うがごとき皮肉がごとき奇矯さが耳に痛い。
続く”Kyrie eleison, Christe eleison.Kyrie eleison”(主よ、憐れみ給え、キリストよ、憐れみ給え。主よ、憐れみ給え)は神妙に、おずおずと、あるいは死にゆく者のごとく。
「ディエス・イレ(怒りの日)」、合唱に加え、金管楽器群の音圧が凄まじい。まさに「この日こそは、怒りの日、天も地も灰に帰すべき日なり」といった迫力。
一転静まり、バリトン独唱によって「夕暮れの大気を悲しくふるわせて、戦いのラッパがひびき、またラッパが悲しげに応える。ラッパは歌った、ラッパは歌った」と戦場の夕暮れの情景が歌われる。
するとソプラノ独唱と合唱が「そのときこそ、この世を裁くすべての言葉を書き記したる書、差し出さるべし」とつんざくような声質で神の裁きを説く。
テノール独唱とバリトン独唱により、争うように(しかし、なんのために争う?)「死神(Death)」を巡る詩が挟まれる。「彼は死神と戦っていたのだ――生のために。旗のために戦う奴は一人もいなかった」。戦争の現実における大義の虚しさ。
女声合唱が「懐い給え、慈悲深きイエスよ」と美しく滑らかに歌い、男声合唱が途切れ途切れに「私をお呼びください」「我をば末期にて救い給え」と神へ救いを求め歌う。
バリトン独唱(今回のマティアス・ウィンクラーの恰幅の良い圧倒的な音圧・声量については一言いっておかねばなるまい)による「戦争」の道具=「殺戮兵器」たる大砲への神の呪いを乞う歌を経て、合唱全体で大々音量での「怒りの日」のオーケストラと合唱!(やはり?)ジョナサン・ノットと東響はフォルテにおいてより輝く。だがなんと禍々しいフォルテの輝きであることか。すぐに声は切れ切れとなり、ソプラノ独唱(ガリーナ・チェプラコワは立っている位置(オルガン前)もあってかこちらに届く声量が少々弱め)の「神よそれゆえにこの罪人を慈しみください」と神へ赦しを乞う典礼文と、テノール独唱(ロバート・ルイスの「西洋こぶし」とでも言おうか、歌をただの歌以上にする抑揚の冴えは抜群の出来であった)による「土が育ったのは、このためであったのか?」と戦争の無意味さを問いかける歌が交互に現れる。
長い「怒りの日」の最後は”Pie Jesu Domine, dona eis requiem. Amen”(恵み深き主イエスよ、永遠の安息を彼らに与え給え。アーメン)と「祈り」が静かに、宵闇の中から浮かび上がるように歌われた。
「オッフェルトリウム(奉献誦)」、2階のバンダのオルガン(ハルモニウム?)と児童合唱の、主イエス・キリストに罪の赦しを祈る歌に始まるが、続く合唱とオーケストラの対位法によるブリテンらしい陽性の音楽に確かに宿る狂気、強迫観念を何としようか。
そしてテノール独唱とバリトン独唱により、聖書とは明らかに異なる、「アブラハムによるイサク殺し」(聖書ではアブラハムがイサクを殺す直前に天使からのお告げにより殺害は止められるのだが、ブリテンの本作では天使のお告げを受けてもアブラハムはイサクを殺す)の歌がうたわれる。「すなわち、ヨーロッパの子孫たちの半分を殺したのである」というステージ上からのテノール独唱とバリトン独唱による絶望の歌と、2階からの児童合唱による神の救いを求める「彼らを死より生へと移し給わんことを」という歌が会場で交錯する。
「サンクトゥス(聖なるかな)」、ソプラノ独唱に始まり、その後合唱によってミクロポリフォニー的な多層のクラスターが形成される。トランペットの高らかな響きに先導されて、全員で神を称える”Hosanna in exelsis. Sanctus”が歌われる。だが――このレクイエム全ての場面に当てはまるかもしれないが――明るさの中の強迫的な感覚が拭い去れない。ソプラノ独唱が怖い。
そこからバリトン独唱が「神は一切の死を取り消し、一切の涙を鎮め給うであろうか?」「私のはかりしれぬ涙は海となって、もはや乾くことはないでしょう」と神による不死への疑義を歌う。
「アニュス・デイ(神の小羊)」、改めてロバート・ルイスが上手い。テノール独唱と合唱が交互に現れるこの部で敵味方・彼我の別なく”Dona nobis pacem”(我らに平和を与えたまえ)と祈るその歌声の崇高さよ。
「リベラ・メ(われを解き放たせ給え)」、テナー・ドラム(もしくはミリタリー・ドラム)からバス・ドラム、そこから女声合唱、男声合唱により裁きの日の歌が広がっていく。ウッドブロックが骸骨の歯の音のように響き、オーケストラと合唱とソプラノ独唱が最大音量で「そのときこそ怒りの日」と奏で、歌う。かくて怒りの日が来たるのか!?
だが、その響きが廃れ、テノール独唱が戦場から地下道に逃げた兵士の歌を歌い、それがバリトン独唱に継がれて「私は、君が殺した敵なのだ、友よ」「さあ、我々も眠ろうよ」と「敵」と「味方」が共に死すことで初めて至る平等な安寧の眠りへと誘う。児童合唱の澄んだ声が「天使があなたを天国へ導きますように」「聖都エルサレムにあなたを導かれますように」と安らぎの歌を重ねる。テノール独唱、バリトン独唱、ソプラノ独唱、混声合唱、児童合唱が「さあ、我々も眠ろうよ」と声をどんどん重ねてゆき……最後は静かに静かに合唱が”Requiescat in pace. Amen”(安らかにお眠りください。アーメン)と「祈り」の言葉を捧げ、『戦争レクイエム』は終わる。
「祈り」とは現実世界における「殺戮」に対して直接的には無意味な行為なのかもしれない。だが、我々が恐怖と憎悪の連鎖から自らを引き離さんとするとき、祈る我々はほんの少しだけでも真の人間たろうとするのではないだろうか。今この戦争の時代において、どうか自分は人間たらんと、平和を祈りたい。
第二次世界大戦、アジア・太平洋戦争が終わった日にアップロードされるこの批評が、どうか人間の「祈り」として読まれますように。

(2025/8/15)