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スイス・ロマンド管弦楽団  |秋元陽平

スイス・ロマンド管弦楽団
Orchestre de la Suisse Romande 

2025年7月8日 ミューザ川崎シンフォニーホール
2025/7/8  MUZA Kawasaki Symphony Hall
Reviewed by 秋元陽平(Yohei Akimoto)

〈演奏〉
スイス・ロマンド管弦楽団
指揮:ジョナサン・ノット
チェロ:上野通明

〈プログラム〉
オネゲル:交響的運動第2番『ラグビー』
ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番 変ホ長調 op.107
※ソリストアンコール
プロコフィエフ: 子供のための音楽 op.65〜行進曲
ストラヴィンスキー:バレエ『ペトルーシュカ』(1911年版)
※オーケストラアンコール
ストラヴィンスキー: 花火 op.4

 

ジョナサン・ノットの先鋭的な部分が前面に押し出されたプログラムである。まず運動量が多く、そしてとにかく音楽のなかの「登場人物」が多い。なにせ「ラグビー」なら両チーム合わせて30人はいるし、『ペトルーシュカ』でも冒頭から市場を行き交うひとびとのざわめきが聞こえてくる。アンコールの『花火』に至るまで、これらの多数の音=人物たちがうごめき、走り抜け、中心をもった整然たる秩序のかわりに、辺縁から流れが絶えず変わってゆくようなダイナミックな構成を要求する音楽だ。このような、いわばボトムアップの音楽を鮮やかに織り上げていくところに、ジョナサン・ノットの真骨頂がある。
わたしは数年間スイス・ロマンド管弦楽団の拠点ジュネーヴに住んでいた。そんなわけでヴィクトリア・ホールに通いつめ、また所属していたアマチュア・オーケストラは彼らの練習場を使わせてもらっていたし、色々と浅からぬ縁があるのだが、中立的に言ってスイス・ロマンドはつくづく、ジュネーヴという街の一種独特な性格を反映したオーケストラであると思う。ジュネーヴはスイスでは少数派となるフランス語圏の都市であり、また住人のおよそ半数が外国人、てんでばらばらのバックグラウンドを持つ人間たちに独立独歩の気風(言うまでもなく、ジュネーヴはあのルソーの出生地だ)が加わって、細かいアンサンブルの帳尻が必ずしも合いそうにないところもあるのだが、各々が主張する色調が提示されたところで、金色の水彩画のような、鮮烈かつ軽快な調和が生まれる、そんな街であり、スイス・ロマンドもまたそういうオーケストラだ。オネゲルの『ラグビー』はスポーツの試合という、刻々と変わっていく構造そのものを描いているのだが、スイス・ロマンドの独特の色調とざわめきは、ときおり訪れる楽しげなTuttiも含めて、こうした「多人数の風景」を描くのに適している。精密に連動するアンサンブルというよりは、それぞれが言いたいことを言って、喧噪を作り出すが、そこでひとつの機運が、運動の方向性が生まれるのだ。
チェリストの上野通明を迎えたショスタコーヴィチの『チェロ協奏曲』には、意表を突かれた。かつて聴いたジュネーヴ・コンクール優勝コンサートでの上野は透徹として求道的なリリシズムに満ちていて、それが念頭にあった私には当初、皮肉やら道化的な身振り、強迫観念やらに満ち満ちたショスタコーヴィチの演奏というイメージが湧かなかった。ところが今回蓋を開けてみると、上野通明は役者であった。彼の音はやはり、あの時の胸を突くような、ソヴィエトの二重言語とは一見すると無縁な透明感のままなのだが、しかしその透明さのうちから狂気が、ヒステリックな執拗ささえ、にじみ出てくる。狂気や執拗さと言っても、ロシアの土俗的なものでもなく、あるいはまたスタヴローギンやラスコーリニコフのような「のるかそるか」という性質のものでもない。冒頭はやや頼りなげに細く、しかし次第に深みを増していくその語り口は、もう少しエレガントで、ともすればダンディな、透明な狂気の語り。圧巻は第二楽章の長いモノローグだ。かつて藤田真央のピアノについて同じことを書いたが、上野通明にもまた、音量をことさらに出していないのに、聴衆の耳元でくっきりと聞こえるようなクリアな発声がある。このように見知った楽曲が、名手によって「音」の次元でいちど解体されて、想像していなかった角度から再構築されるような体験というのは嬉しいものだ。
『ペトルーシュカ』は、すでに述べたようにスイス・ロマンドの多様性そのままに賑やかできらびやかな群衆の音楽だ。例えば今年レビューしたロッテルダム・フィルの張り詰めた演奏に比べると、あちらこちらで互いに示し合わせずにさまざまなことをやっているという感じはするのだが、アンサンブルがほつれきることはない。それは個々の勢いを抑えることなくとりまとめていくノットの手腕であろう。彼はオーケストラによっては精密工学のように音楽を作り上げるのだが、コントロール・フリークではなく、音楽を生け捕りに出来る指揮者なのだ。だがそれのみならず、ここで特筆しておきたいのがピアニスト橋野沙綾の活躍だ。彼女の演奏するすべてのパッセージのニュアンスが異なっていて、そのたびごとに同伴する管楽器とみごとに平仄をあわせてゆくさまは、彼女がアンサンブルの核を作り出しているといっても過言ではなく、ペトルーシュカの根源にピアノ協奏曲があるということに、今回ほど納得したことはなかった。
さて、『ペトルーシュカ』は人形の糸がぷつりと切れるように、あっけない幕切れを迎える構成となっている。ノットは、グランギニョルの残酷劇の後味を拭いましょうという主旨のことを短く述べて、ただちに『花火』の打ち上げにとりかかる。このプログラムの知的な一貫性、挑戦心、それをひとつの即興的解釈として実現する力といい、ジョナサン・ノットという音楽家には、指揮者のみならず「音楽監督」というポジションがふさわしいということを納得させられた夜であった。

(2025/8/15)