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特別寄稿|戦後80年に〜三善晃の見た戦争|丘山万里子

戦後80年に〜三善晃の見た戦争

Text by 丘山万里子( Mariko Okayama)

戦後80年。
戦争にこだわり続けた作曲家三善晃に、対話(『波のあわいに』春秋社)で「なぜそこまで戦時体験を音にし続けるのか、もういいよ」という声も聞きますが、と尋ねたら、「人間は同心円でタマネギみたいなもの、剥がしても剥がしてもタマネギ、一つのタマネギ」との答え。「愛」と「憎」も同居している、そういう同心円、と言われても……わかったようなわからないような、と思いつつ、戦争体験だけではなく、そこから派生する人間のさまざまな姿を自分は語っているんだ、ということですね、などと安直な相槌を打った。

反戦三部作(1972~1984)、交響四部作(1995~1998)、絶筆の混声合唱『その日―August 6』(2007)まで、戦争をテーマとした作品群が三善晃の一つの貌であることは確か。だが、それだけで語ることへの疑念を抱き、初期作品から見直しての作業(本誌連載)にあって、それでも戦後80年の今年、昨2024年の日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)ノーベル平和賞受賞であれば、あらためて三善の戦時を確認しておこうと思った。
ここでは、少年三善に刻まれた戦争の記憶の言葉のみを集める。
三善は8歳で開戦、11歳で集団疎開、12歳で終戦を迎えている。
記憶は、開戦前の相撲談義(幼少時から熱烈ファンであった)から始まる。
「なぜそこまで」がわかるとは思わないが、これらから、何が見えるだろうか。

*   *  *

【開戦前夜】
昭和十五、六年というと、双葉山に男女ノ川、羽黒山に安芸ノ海に前田山、といったところが横綱大関を占めていて、国民学校の“少国民”の私が、そうそう桟敷通いできるほどのご時世じゃなし、年に二場所、ひっぱたくと音の出るラジオにかじりついて、国技館の歓声だかラジオの雑音だかわからん音に聞き耳を立てていた。――中略――ラジオもメンコも熱中していさえすれば日は暮れて、あとは乾燥タマゴをほぐして雑炊にばら撒いて食べれば、寝ることしか残っていない。思えばケンカとピアノと相撲に彩られた日々だったが、子供っていいもんだ。結構タノシクやっておった。
(『大相撲』1990/4)
※三善の祖父は代議士で、相撲道楽。後援力士が桟敷に挨拶にくる。小学生の三善もそこにいた。

【集団疎開】長野・別所温泉
昭和十九年の晩夏 家のそばの原っぱは空いっぱいの夕焼けに燃えるようでした。集団疎開する私は そこで母と別れました。母の白いエプロンが はじめは茜色の渦の中心ににじみ やがて 抗うように揺れながらその中に溶けてゆきました。私のなかの やさしさのゲシュタルトは 茜色の渦の中の白です。
(女声合唱団彩の会演奏会ノート「彩雲と血の翳り」1983)

信州の集団疎開地で過ごした昭和十九年初冬のある朝、私は寮の裏手に忍び出た。何か食べるものはないか。白いものを見た。板に兎の皮が張り付けてあった。白い毛に赭い血が……冬の明るい陽射しを浴び、それは私の目の前に眩しく光っていた。
(『ぴあのふぉるて』 1993)

集団疎開した時は本当に飢えてくると、例えば歯みがき粉とか絵の具まで食べてしまいました。宿舎の裏のりんご畑からりんごを盗んだりもしました。その時は疎開した妹も飢えていたわけですが、でも僕は盗んだリンゴを隠していて妹にやらなかった。
(『音楽現代』 2004/9)

昭和二十年一月、父と姉が疎開先に来て、私を東京へ連れ帰った。帰る直前まで私はそのことを知らされていなかったが、それは一人で残らねばならない妹の気持ちを父が慮ったからだろう。しかし、いずれにせよそれは告げられねばならず、告げられたとき妹は、ひそと笑みを浮かべてうなずいた。生きてきて、私にもつらい思いは少なくないが、この時の妹の笑みは今も私の心臓を締めつける。私は五年生のKに妹のことを頼んだ。――中略――Kは「うん、俺が守ってやるから」と言って笑い、袖で鼻水をぬぐった。妹は寮の二階の手摺りにもたれて私たちを見送っていた。
(『読売新聞 』 1986/5/26)

※妹は1962年、「アトを断ち切る」(自死)つもりで軽井沢に家出した兄を追い、温泉に誘う。東京に戻った三善は合唱曲『嫁ぐ娘に』を書き、結婚を控えた妹をそこに重ね涙する。

壇上チェック柄少年が三善との本人の言。隣は妹だろう。

【敗戦まで】中学受験で疎開から帰京
その夜の空襲の最後の爆弾が気まぐれのように天沼に墜ち、T先生の家が吹っ飛んだ。妹の元担任で、独身の女性だった。妹と二人招かれて、休日を遊ばせてもらったことがある。明け方の爆弾は、先生の家の大きさの穴だけを冬の曇天に残した。

三月四日、杉並に八回目の空襲。区内の死者三十、罹災者五百。私は庭の青梧に登って南から焼けてくる空を見ていた。叔父が、土で入口を塞いだ防空壕に水を掛けていた。耳元を鋭い擦過音が降下し、地面に衝撃が走った。樹から跳び下りた。広がる硝煙のあちこちに粘っこい炎が燃え、そのなかに叔父の顔が泳いでいた。腰を抜かしたのだ。私は笑った。笑いが止まらなかった。笑いながら叔父のバケツを引ったくった。

空襲の翌朝は、不通になった中央線の線路を新宿まで歩いた。線路上に焼死体があった。無感動で通り過ぎた。一度だけ、雨水にふやけた手の指に触ったことがある。硬いのに、脆そうだった。

夏になり、放課後、多摩川に泳ぎに行った。数人の子供もいた。その頃になると、東京は機銃掃射の対象だった。それが不意に来た。警報とほとんど同時に空に三機。その一機が真っ直ぐに降りて来て、川に機銃弾の帯を撒いて行った。その帯のなかに一人の子供が突っ伏していた。……そうして戦争が終わった。学校で教練を担当していた謹厳な元退役陸軍大佐が、馬に乗って郷里に帰ったと聞いて、私たちは笑い転げた。
※この機銃掃射は「生き残った自分」という原罪意識として、誰もが知る三善戦時のエピソードである。
(『ぴあのふぉるて』 1993)

【敗戦後】
昭和二十二年、地方自治法が公布された四月の選挙に、父は担ぎ出されて自由党から杉並区に立候補した。新制中学三年生になった私も幟を担ぎ、遊説の一行にくっついて、強制撤去跡にヤミ市の立つ駅前広場を巡った。――中略――人々が不定時に我が家に出入りし、飲食し、寝泊まりした。食糧のない時代……パンの切符配給がはじまったのはその年の秋のことである。ある夜、寝場所のなくなった私は、母と一緒にそのなけなしの食料を置いてある六畳間に寝ていた。物音に目覚めた。一隅に置いてある米の袋を誰かが持ち出すところだった。叫ぼうとしたとき、眠っていた母が私の背中を押さえ、黙って、という目を私に向けた。昼間「ガソリンが……」不足だとか、父に言っていた若い男だった。

ある駅前の演説を聞く人々の中に、一人の初老の男がいた。小学校時代の集団疎開で寮の監督をしていた担任だった。飢えた私たちをよく殴り、時には凍てつく信州の夜の廊下に縛りつけたりした。夜、酔っ払って帰って来て、私たちに布団を敷かせたこともあった。戦後退職したと聞いていたその元教師が、見覚えのある豚皮の靴を履き、疲れた顔でしかしじっと父の演説に耳を傾け、時折深く頷いてもいた。私には、気づいていなかった。
……父は落選し、違反の疑いで留置された。母の作った弁当を私が差し入れに行くと、父は少し笑った。
(『ぴあのふぉるて』 1993)

*   *  *

日本現代音楽協会(通称現音)発行の『NEW COMPOSER』(2003/vol.4)に《一人の母親の白い背中から》という三善の文章がある。2003年3月20日、米英のイラク攻撃開始の前日、彼が現音に送ったファックスの一部と、それに関する記述である。内容を以下に引く。

ところで、突然FAX差し上げるのは(私からでは筋違いかなという気もしますが)、ブッシュの戦争について、どう、お考えになるか、お伺いしたかったからです。
もう遅い/重複する組織運動が既にある/協会としての統一見解は出せない、などのご意見もおありかと思いますが、いかなる理由があれ、戦争は駄目、とみんなで言うことは必要かと考えます。人が人を殺していいわけがない、という自明なことを、日本人は身を以て学んだばかりです。ご多用のところ、申し訳無いのですが、一度、委員会でお諮りくださいませんか。簡単に私見を述べさせていただきますと、
イラクが核・細菌などの破壊兵器を秘匿しているというならば、時間をかけて査察をすべき。現に、査察団は機能しており、一定の成果を挙げている最中だ。
過去の国連合意で攻撃の根拠はあるというなら、なぜ新たな決議案を用意し、また、その修正案を出そうとしたのか。新たな国連の最終決定を必要としたからではないか。その国連は戦争を否定した。
いかなる政治的・経済的理由を以てしても、他国の主権を犯すべく攻撃することは許されない。ブッシュ・ドクトリンは独断であり、アメリカの覇権主義だ。
小泉首相・日本政府は、人の命より、日米同盟の方が大事だというのか。北朝鮮の脅威があるというが、それとアメリカの暴力的な理不尽は「取引」できることではない。
なによりも、国際紛争解決の方法としての「戦争」を否定する。
などです。ご一考下さればありがたく存じます。

現音からの反応はなく、1ヶ月ほどのち、当時の会長と理事一同より、「検討したが、政治的立場は各人によって相違があることを考慮し、戦争反対を協会全体の総意とすることは適当でない」との連絡が入った。三善の FAXが会報に転載されるということで、彼は下記の文章を添えた。

――前文略――アメリカの13歳の少女の『2400万のイラク人の半数は私と同じ子供』と題するメッセージが世界9ヶ国語に訳され、グローバルな反響を集めています。13歳の少女に政治的な立場は無いと思います。仮にその立場があるとしても、それを超える人間的な立場から、少女は発言したのだと思います。そしてその最中、今朝(4月10日)の朝刊はバクダッド陥落を報じました。問題は政治的・軍事的力学が人の生命を抹殺することを正当化してしまうことの是非です。

さらに個人の意見としてこう付け加えている。

――現世界では、誰しも政治的立場を持たざるを得ないと思います。ただ、一人の人間が「生きていたい」と思うことに政治的立場がどう関わるのか、私には分かりません。今も、杉並区役所のロビーには、昭和20年3月10日の下町の写真が展示されています。子供を背負っていたために背中だけが白い母親の焼死体のそばに、子供が死んでいる写真などです。それも政治的立場によっては「致し方ない」あるいは「よいこと」とされるのでしょうか。
                      2003年4月17日 三善晃

*   *  *

私は、兵隊から帰ってきた父と東京大空襲を生き延びた母が社内恋愛結婚して生まれた子供で、戦争は知らない。でも、祖母が毎月通う巣鴨地蔵にくっついてゆくと片足の傷痍軍人がアコーディオンを鳴らしていたり、いつも遊ぶ原っぱの向こうには防空壕があって、行ってはいけない場所だった。原っぱには焼夷弾の残骸が残っていた。
父は加藤隼戦闘隊という有名な飛行戦隊の整備兵で、1940年入営、敗戦をビルマ(ミャンマー)で迎えた。大手出版社の編集者として太宰治や高村光太郎らと酒を飲み歩くような人だった。時折、軍隊仲間を家に集め、軍歌を歌って酔っ払い、子供心にその臭いと馬鹿騒ぎが大嫌いだった。
彼は2冊の戦記と詩を遺したが、私がその本を手に取ったのは山田耕作論を執筆のため、旧満州を旅してのちだ。克明な戦記の巻末にぎっしり並んだ戦死者名簿に、初めて父の想いの重さを知った。加藤隼戦闘隊(昭和16~20年)で祖国の地を踏んだのは381名、戦死者166名。戦死場所は、仏印、タイ、マレー、ビルマ、スマトラ、ジャワ、中国、病院船、南シナ海と、それぞれに詳細がある。山本重爆隊(昭和16~22年帰国船も含む)の戦死者は209名、こちらは昭和16年から自爆の記載が始まっており、末期には18歳前後の少年兵が多数並ぶ。
三善はパリから帰国の羽田機窓に墨絵世界をみて、生々しく散らばる白骨を拾い集めて墓を建て名を刻むと心に決めたが、「墓碑銘」とはこういうことでもあろう。

*   *  *

8歳から12歳まで、私の周囲の世界はどんなだったろう。
今、私のそばには7歳と12歳の孫が暮らす。
たまに会っておしゃべりする社会人1年生と大学1年生の方は青春真っ盛り。
彼らには、どんな世界が見えているのだろう。

この年頃、あなたの周囲はどんなでしたか。
何が、見えましたか。
何を、見ましたか。
今、何が見えますか。

                                      (2025/8/15)

註)疎開写真は、『波のあわいに』対話のおり、疎開先の別所中松屋旅館を訪ね、ご主人(三善氏は、ああ、息子さんの次男の誰それちゃんだ、とすぐわかった)から手渡された本『皇后陛下のビスケット』(同じ杉並第五小学校の疎開児童が書いたもの)より。
敗戦前後は『杉並にも戦争があった』より。

参考資料)
『波のあわいに』春秋社 三善晃+丘山万里子 2006
『ぴあのふぉるて』 毎日新聞社 1993
『皇后陛下のビスケット』 中田雅子 クリエイティブ21 1998
『杉並にも戦争があった』 国際児童年子どもの権利を守る杉並連絡会 1986
『NEW COMPOSER』Vol.4 現代日本音楽協会 2003
『加藤隼戦闘隊の最後』 粕谷俊夫 朝日ソノラマ 1986
『ああ山本重爆隊』 粕谷俊夫 朝日ソノラマ 1986