ラハフ・シャニ指揮 ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団|秋元陽平
ラハフ・シャニ指揮 ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団|秋元陽平
Lahav Shani, Chief Conductor, Rotterdam Philharmonic Orchestra
2025年6月26日 サントリーホール
2025/6/26 Suntory Hall
Reviewed by 秋元陽平(Yohei AKIMOTO)
Photos by (c)Junichiro Matsuo/写真提供:ジャパンアーツ 宣伝部
〈演奏〉
指揮 :ラハフ・シャニ
ピアノ:ブルース・リウ
〈曲目〉
ワーヘナール:序曲「シラノ・ド・ベルジュラック」 Op.23
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 Op.26 (ピアノ:ブルース・リウ)
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」ホ短調 Op.95
アンコール:ドヴォルザーク:スラヴ舞曲 第2集 第2番 Op. 72-2 ※(ピアノ:ブルース・リウ&ラハフ・シャニ)
オーケストラ アンコール
メンデルスゾーン:無言歌集 「紡ぎ歌」Op. 67-4
メンデルスゾーン:無言歌集 「ヴェネツィアの舟歌」Op. 19-6
出だしから幸先がよかった。皮切りのシラノ・ド・ベルジュラックにおいて、ロッテルダム・フィルとシャニはすでに千両役者ぶりを披露した。それにしても、わたしのような仏文学徒ならともかく、日本でシラノはどれくらい人口に膾炙しているのだろう? しかしながら、日本であまり知られていない物語に日本であまり知られていない作曲家が音楽を付したとなると聴衆の反応はいかに、などと心配する必要はなかった。オーケストラの祖国オランダの作曲家ワーヘナールによる音楽はところどころフランス的色彩も帯びつつR.シュトラウス的な饒舌多展開もあり、七つの顔を持つ主人公の活劇を生き生きと描き出すのだが、聴衆をまったく飽きさせない。それもそのはず、全部のパートが異様にくっきりと聞こえるのだ。シャニの盛り上げる手腕に疑いはないが、この美質について指揮者だけにすべての功を帰するのは間違っているだろう。このオーケストラは分厚い金管セクションを筆頭に、弦楽器や木管も、互いが互いを完全に聴きあう自発的なアンサンブルによって、絶妙なバランスで音を載せ合っているようだ。同時に、パート同士が音響のうえで疎通しているからこそ、管楽器のソロが、まるでホーンセクションを従えるビッグバンドのソリストのような大きな自由度を持つことができる。このことはメインのドヴォルザーク『新世界より』でも体感することができる。フルートも、コールアングレも、ひとりひとりがなんとのびやかなことだろう。
しかしなんといっても本演奏会の白眉はブルース・リウを迎えたプロコフィエフのピアノ協奏曲第三番であり、本稿の関心はここに集中せざるを得ない。聴覚体験の解像度がこの協奏曲に至ってほとんど極限に達し、ある種の薬理効果によって知覚が冴え渡るようにして、わたしは自分がまるでスコアに書かれているすべての音が一つ一つ聞こえているように錯覚した。もう一つ、驚くべきはブルース・リウというピアニストである。わたしはショパンコンクールの直後にソロリサイタルを聴いているのだが、そこでは漠然としか感じ取っていなかった彼の独自性に今回改めて思い至った。それは、彼の演奏に刻印された一種独特の音響美学である。ファツィオリというピアノの選択はあくまでその表れにすぎないのだ。
マルタ・アルゲリッチの録音しかり、聴衆の脳裏にはこの曲目のさまざまな名演の記憶がすでに刻まれているはずだが、ブルース・リウのアプローチはそのどれとも異なる。彼は、ともすれば疾走感とともにドライヴすることが期待されそうな走句―たとえば第一楽章後半にクレッシェンドからの主題回帰を導く上行音型―を、丁寧にマルカートで強調し、むしろゆっくりとそれと戯れる。このとき燻銀な彼のファツィオリは、まるで大小さまざまの貴石でできたプリペアドピアノのように、毎回少しずつ異なる、しかしいずれもきわめて堅く撥ね付けるような輝きを放つのだ。わたしは彼のショパンを聞いたときにそこまで強い印象を受けなかったのだが、この一種独特な硬度の美学はプロコフィエフと実によく響き合う。第二楽章では彼のタッチコントロールの精密さが披露され、オーケストラの細密な線のうえに、一抹の絵の具を跳ね散らすようにしてライブ・ドローイングを展開する。このときブルース・リウは背後で展開するオーケストラの音の飛び交う範囲をしっかり見極めていて、またオーケストラと指揮者もピアニストの音のくっきりした形態を把握しており、互いの音が浮き立つような位置どりを十分にはかった上でソリストが演奏するので、プロコフィエフのこの聞き慣れた協奏曲に、今まで気づかなかった音符をたくさん発見したくらいだ。指揮者のラハフ・シャニがこれらを統括する役割を十二分に果たしたことは疑いなく、それはアンコールでブルース・リウと連弾した際のみごとな平仄の合わせ方を見ただけで理解できる。このプロコフィエフの演奏には、まるでカンディンスキーの絵画のように、区切り合う色彩と形が生み出す生命がある。これを越え出る演奏に出会うことはなかなかないだろうという域の収穫だ。



(2025/7/15)