NHK交響楽団 第2040回定期公演 Bプログラム|秋元陽平
NHK交響楽団 第2040回定期公演 Bプログラム|秋元陽平
NHK Symphony Orchestra 2040th Subscription Concert Program B
2025年6月12日 サントリーホール
2025/6/12 Suntory Hall
Reviewed by 秋元陽平(Yohei Akimoto)
写真提供:NHK交響楽団
〈演奏〉
指揮 :フアンホ・メナ
フルート :カール・ハインツ・シュッツ
〈曲目〉
イベール/フルート協奏曲
(ソリスト・アンコール:イベール/無伴奏フルートのための小品)
ブルックナー/交響曲 第6番 イ長調
はっきり言おう。年にそう幾度もない大名演であった。終演後の聴衆の反応こそ穏やかだったが、人々は静かに興奮しているようすだった。それもそのはずである。まず、イベールとブルックナー、それも6番というプログラムに面食らう。音楽性においてほとんど北極と南極ほどにかけ離れているように思われる二人だが、コントラストが際立てば際立つほど、二人が音楽家としてそれでもなお共有しているものが逆説的に明らかになるようだった。出来上がった作品にわかりやすい共通点がある、ということではない。むしろ、音楽家として答えなければならない共通の問いのようなものがあって、それに各々が際だった仕方で回答している、ということだ。それは、音楽をどう「語る」かという問いである。
わたしはジャック・イベールのファンとしては比較的年数の長いほうで、小学生のときにピアノ・コンクールの課題曲で『物語』を択んで弾いたのを皮切りに、その軽やかさに心を奪われた。フランス文化圏の研究に手を染めた契機のひとつに、イベールの音楽を通じて漠然と募らせた「フランス的な洗練」なるものへの憧れがあるとさえ言っても良い。しかしこのフルート協奏曲、試されるのはソリストのみならずオーケストラの運動性能でもあり、冒頭のアンサンブルが乱れてやや不安になったが、ただちに際立ったのはソリストを務めるカール・ハインツ・シュッツの「語る力」だ。この協奏曲のフルートパートは飛び抜けて忙しく、絶えず風向きの変わるリズムと曲調のなか、休むこと無く囀り続け羽ばたき続ける鳥のようだ。ところで、速いパッセージというとしばしば技巧のことばかり気になって、「成功するか失敗するか」というサーカスの曲芸のように捉えられがちだが、シュッツの手にかかるとこうした懸念は吹き飛び、すべてが明瞭なアクセントと抑揚で発声され、キュートでユニークな「饒舌」として、まったく自然にとめどなく流れていく。このとびきり雄弁な語り手のおかげで、やや足取りの重かったオーケストラも次第に活気づいてゆく。コンサートマスター郷古廉による、いわばフレンチ・シックという出で立ちのソロも出色だ。イベールのエスプリは、色彩感だけでなく、聴くひとに息をつかせない句点や読点の配列の妙にあると思う。同時にフアンホ・メナの解釈は、イベールの軽快さだけでなく、シンフォニックな重厚感をもたらす仕掛けが随所に仕掛けられていることも明らかにする。第一楽章、フルートも奏するせわしない第一主題と、荘重な別の主題がオーケストラのうちで絡み合い、決然とした金管のアクセントによるドラマティックな転換を経て、ふたたびフルートの囀りが戻ってくる場面など、サスペンス映画のような臨場感も味わえる。それにしてもシュッツは第一級のフルーティストとして際だった音色を持っていて、とくに緩徐楽章冒頭の物憂く豊かな中低域は、耳を疑うほどに聴衆の近くで鳴って聞こえ、南仏海岸沿いのうだるような朝の熱気を彷彿とさせる。同じくイベールの手によるアンコール・ピースもまた、シュッツの語りの精彩を前面に押し出すもので痛快だ。
さて、ブルックナーの6番である。ブルックナーの「語り」はその抑揚、リズム、休止に至るまで強烈な「個人言語idiolect」に貫かれており、そのすべてが腑に落ちるわけではないわたしは、演目にあれば聴きに行くものの、イベールの場合と異なり、彼の熱狂的な聴き手でも最善の聴き手でもないことを重々自覚していた。これまで聴いてきたブルックナーの演奏においてしばしば釈然としなかったことの一つに、金管の勢いではごまかしきれない、モノリスが乱立するかのごとき曲想の不連続感がある。ブルックナー休止をもたない6番でも同様にその不満を感じてきた。「それがブルックナーというものだ」というひともいるが、わたしはそうは思わなかった。
ところが、フアンホ・メナとN響による今回の緊張感に満ちた仕事は、最良のブルックナー・ファンではないわたしでさえもノックアウトしてしまった。先に書いたような不満は全く感じなかった。諸楽想が、大胆な転換を伴うとしても依然ひとつの連なりとして持続し、終わりには長い小説を読み終えたような深い満足感があったのである。
そこには特別なマジックがあったというよりも、メナとN響による、ひとつひとつのモチーフの丁寧な彫琢があったのではないか。アーティキュレーションやリズムがすべて拾い出され、くっきりと描画されてゆくことで、不思議なほどにあらゆるパーツがつながって視える。ブルックナーの堅牢で垂直的な作曲法が、彼がオルガン奏者であったことと関連しているということはよく言われるのだが、もしそうであるのならば、ブルックナーの音楽を賦活する方法も、オルガンやチェンバロのときと同じなのかもしれない。つまりそれらの楽器では、アーティキュレーション、フレーズの入り切りといった、「語りspeech」の抑揚を徹底することによって、楽節と楽節のあいだの移行をスムーズにしたり、絡まり合う対位法的なフレーズを意味単位に分節したりすることで、時間を数珠つなぎにすることが重要になってくる。メナとN響の共同作業で行われたのはこうした語りの共有だったのではないか。第三楽章ではトリオからの復帰が遅れ、奇妙な間が空いてしまう場面もあったのだが、それすら緊張感を台無しにするものではなかったことがその証拠だろう。聴衆は楽譜にないその休止のときもなお、興味深い話し手の語りが再開されるのを、息を呑んで見守っていたのである。金管を中心にN響のサウンドの充実も素晴らしく、それぞれのセクションが分厚い「面」を作り出し、音による大伽藍をアーチや壁面としてしっかり支えていた。
ここまで書いてから、マエストロが初期の認知症を患っていることを自らのSNSアカウントで公開したことを知った。むろん、この事実を鑑みて何か付け加えたりする必要がないほどにこの演奏会は素晴らしかったのだが、やはりこう強調しておきたい。私はこのブルックナーの6番をこの先そうそう忘れられないだろうと。日本の聴衆は、再びそのタクトによって音楽の深みへといざなわれることを待ちわびている。マエストロの末永い健康を心から祈りたい。
(2025/7/15)