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セビリアの理髪師 新国立劇場|秋元陽平

セビリアの理髪師 新国立劇場|秋元陽平
Il Barbiere di Siviglia 

2025年6月3日 新国立劇場
2025/6/3 New National Theater

Reviewed by 秋元陽平(Yohei Akimoto)
撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

〈スタッフ〉
【指 揮】コッラード・ロヴァーリス
【演 出】ヨーゼフ・E.ケップリンガー
【美術・衣裳】ハイドルン・シュメルツァー
【照 明】八木麻紀
【再演演出】上原真希
【舞台監督】CIBITA 斉藤美穂
〈キャスト〉
【アルマヴィーヴァ伯爵】ローレンス・ブラウンリー
【ロジーナ】脇園 彩
【バルトロ】ジュリオ・マストロトータロ
【フィガロ】ロベルト・デ・カンディア
【ドン・バジリオ】妻屋秀和
【ベルタ】加納悦子
【フィオレッロ】高橋正尚
【隊長】秋本 健
【アンブロージオ】古川和彦
【合唱指揮】水戸博之
【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

 

わたしはかつて新国立劇場の、同じく脇園彩がタイトルロールを華麗に演じた「チェネレントラ」の公演評において、ロッシーニのオペラのキーコンセプトのひとつに、「運命を切り開こうとする人間が、自らの内に溢れるエネルギーを発見して感じる当惑」があるのではないかと書いた。彼の作品群がすぐれて喜劇的でありながら、ブッファの域を超えたものであると評される理由もここにある。つまり、たしかに「当惑」するひとびとが舞台上であたふたすることは喜劇的なのだが、その原因はわたしたち自身のうちにあってわたしたち自身を定義上越えていく生の躍動そのものであり、そこに得体の知れないエネルギーを感じるのだ。わたしたち観客はロッシーニをステレオタイプにはまった人間を上から見下ろす性格喜劇として見ない。むしろ登場人物たちの型破りな行動が生み出す破天荒なドラマを見て、笑いながらも吹き荒れる風で自分の髪が煽られるのを感じるのだ。この点、『セビリアの理髪師』の登場人物たちは確かにいずれも強かな策略家であるのだが、彼らもまた自らが嵐の海の上を漂う小舟のような存在だと知っている。食わせ者のフィガロにしても、やはり自分が最終的にどこへ行くかわからないと悟っている風来坊の楽天家のようでもあるし、ロジーナにしたって、恋の鞘当てでは蛇viperaにだってなると嘯くけれども、やはり自分のパッションに翻弄される乙女でもある。反対に、ここで笑いものになるのは本当に人を策略によってコントロールしようとするパラノイアのバルトロなのだ。自らをもまた突き動かすエネルギーの、生のなんたるかを理解していないわけなのだから。
ところがジュリオ・マストロトータロの演じるこのバルトロ、最大限にコミカルでありながらも深みのある歌唱が光る男前で、ただの嬲られ役には到底収まらない迫力だ。対抗するのは気鋭のロッシーニ・テノール、ローレンス・ブラウンリーのアルマヴィーヴァ、こちらはやや鋭く硬質だがどこまでも伸びて抜ける艶やかな高音域は心地よく、酔っ払いの演技からアジリタもみごとな技巧でこなし、強烈な存在感を放つ悪役バルトロ相手に引けを取らない。ロベルト・デ・カンディア演じるフィガロは、トリックスターであると同時に物語を安定させる調停者としての重みもしっかりと感じさせる。妻屋秀和によるバジリオの怪演もいわゆる「出落ち」のような笑いを誘いつつ、豊かな低音域はインパクトに富んでいる。こうして瑕疵のない歌唱陣に加え、やはり脇園彩のロジーナの魅力は他に代えがたいものがある。軽く素早いというよりは稠密で深い声質は、「ma」で恋する乙女と策略家を切り替えるロジーナの二面性にマッチしている。騙されたと知った彼女の怒りの歌唱の冷酷さといったら! この誤解のシークエンスはあっという間に過ぎ去ってしまうのだが、それだけにその一瞬の変貌ぶりは脇園の表現のパレットの広さを強く印象づけるものだった。
オーケストラも健闘していたが、わたしは今回もまた、ロッシーニの音楽ほど演奏が難しいものはなかなかないという印象を抱いた。聴く方が貪欲になってしまうのだ。もっとぎりぎりまで性格的に、もっと音楽を弾ませることができるのではないか、と。演出は穏当、穏健なもので、大きな驚きはない(フランコ政権という設定からさまざまな小ネタが案出されていたが、必須とは思えなかった)。しかし、舞台上を動く複数の黙役(子どもの叫び声、うろつく老人…)や小道具の登場のタイミングが極めてよく練り込まれており、舞台の全体を視野に入れた演出家の熟練にうならされる。特に諷刺が効いていたのはバルトロの家の人骨模型である。ロジーナやバルトロの思惑が人骨のまわりで展開する有様は、古典的な滑稽のコードに即するものでありながら、同時にロッシーニ喜劇の本質を端的に示すものだ。人間は策略で運命をその臓腑まで透視しようとするとき、生から最も遠ざかるのだ。人よ恋せよ、生きよ、と。

(2025/6/15)