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パリ・東京雑感|ロシアからの亡命者には、トランプのアメリカがよく分かる?|松浦茂長

ロシアからの亡命者には、トランプのアメリカがよく分かる?

Text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

小さな家を見つけたアリスは、体を小さくするキノコを食べて家に入ると、赤ん坊を抱いた無愛想な公爵夫人と、赤ん坊にものを投げつける料理人と、チェシャ猫がいた。

ソ連崩壊直前、リトアニアに行ったとき、案内してくれた青年が、「この国は何もかも不条理、ナンセンス!『不思議の国のアリス』になったみたいなものです。」と言っていたけれど、いまのアメリカも、終末ソ連に負けない「不思議の国」に見える。
プーチンのロシアにいられなくなって、アメリカに亡命した人権活動家たちは、今どんな気持ちだろう。やっとの思いで自由な国に逃れたのに、あれよあれよという間に、おかしな国に変わって行く。自分の立つ大地が裂けて、奈落に落っこちそうな不安を感じているに違いないが、こんなときロシア人は強い。「私たちは、独裁支配については、あなた方より先輩だ。それがどんな姿で現れるか、理解するのをお助けしましょう」とばかり、機知に富んだ文章を、『ニューヨーク・タイムズ』に、投稿している。

マリア・クズネツォーヴァさんとダン・ストリエフさんは、2000年代、腐敗と暴力をあばいたジャーナリストが殺され、西に開かれたロシアを守ろうとした政治家が消され、昔ながらの圧制政治に先祖返りするなかで、青春時代を送った。20代に人権活動をして、西側に亡命した「裏切り者」だから、帰国は刑務所入りを意味する。
マリアさんとダンさんには、いまアメリカで何が起こっているか、ぴんときた。彼らが青春時代に見つめてきた強権支配の「しるし」と同じ「しるし」が、アメリカに現れ始めたからだという。そこで、二人は提言する。

アメリカの友人たちは、いま何が起こっているかをうまく言い表せなくて、悪戦苦闘している。そのわけは、今の事態を指すぴったりの言葉がないからだ。私たちにはある。何十年も独裁者と向き合って生きてきたロシア人は、独裁支配の真相を生き生きととらえる語彙を、豊かにはぐくんできた。――新語を紡ぎ出す、暗号化されたジョーク、あいまい言葉、イソップ言語(検閲の目をくらますための寓意的表現)
これらの言葉のうちいくつかは、すでにアメリカにも入って来た。「オリガルヒ」(プーチン政権と癒着することで、莫大な富を蓄え、暴力的に市場を独占する連中)や「グラーグ」(ソルジェニーツィンの『収容所群島』であばかれた強制収容所)は、トランプ大統領の政治を正確に言い表そうとする人たちの努力で、広く使われるようになった。
でもまだたくさんある。そこで、私たちは、アメリカ人が自国の〈新現実〉を言い表すお手伝いをするために、ちっぽけな単語集――「独裁主義用語集」のようなものを書くことにした。なぜなら、何が起こっているかを的確に言い表せれば、敵との闘いが、いくぶん有利になるからだ。(『今アメリカで何が起こっているか、六つのロシア語で言い当ててみよう』マリア・クズネツォーヴァ、ダン・ストリエフ、〈ニューヨーク・タイムズ〉6月9日)

――〈ムノーガハドヴォチカ〉
ちょっとこっけいな響きのこの言葉、文字通り訳すと「たくさんの段階」、ふつう「マスタープラン」基本計画、の意味で使われる。プーチンが馬鹿なことをやるたびに、クレムリンの役人は、大統領の天才ぶりをたたえなければならない。そんな苦しい説明を、からかって、〈ムノーガハドヴォチカ〉と言う。
御用メディアによれば、プーチンのやることは、すべて深慮遠謀、偉大な計画のワンステップであり、最終的には、全国民にすばらしい幸せをもたらすのだ。たとえば、2022年、ウクライナのキーウに向かって侵攻したものの、ロシア軍の戦車が片っ端から破壊され、散々な目にあったとき、国営プロパガンダ放送は「ロシア軍はキーウから撤退してはいない。すべては陽動作戦の一環である」と言い張った。

他方、トランプの「美しい」関税戦争はどうだろう。百数十パーセントの関税を吹っかけて、世界のどぎもをぬいたものの、数字を半分に、三分の一に割引したり、実施を延期したり、言うことがコロコロ変わる。泰然自若とかまえた中国が、レアーアースを売らないと脅し、アメリカに頭を下げさせたのを見て、どの国もディールとやらに飛びつくのはやめようと、様子見を決めこんでしまった。
関税戦争の戦況は、なんとも、はかばかしくないのだが、ホワイトハウス報道官キャロライン・レヴィットは、記者に向かって「あなた方は、ディールの技を見損なっています。だから、トランプ大統領がいまやっていることの意味がまるっきり分からないのです。」と言い訳する。
「ディールの技」とは? マリアさんとダンさんの目には、これまさに「ムノーガハドヴォチカ」だ。大統領が大失敗をしでかしたとき、呪文のように唱える、ありがたいお言葉である。

ヘグセス国防長官の腕には、We the Peopleの入墨が見える。上腕には、ラテン語のDeus Vult「神がそれを望まれる」が彫ってある。この言葉は、十字軍出発の鬨の声として知られ、イスラム嫌いのキリスト教ナショナリストに大人気だ。

ヘグセス国防長官は、シンガポールで開かれたシャングリラ・ダイアローグ(アジア安全保障サミット)で、信仰告白と聞きまがう、賛美の言葉を連ねた。

世界は信じられないほど幸運です。平和を探し求める人であり、同時に強力なリーダーである人が、アメリカ大統領となったからです。トランプ大統領には、不可能に見えることを可能にするたぐいまれな能力がある。彼は究極のディールの達人なのです。

不可能を可能にする神秘的パワーへの帰依こそ、「ディール」=「ムノーガハドヴォチカ」の神髄。「キリスト教ナショナリスト」に改宗したヘグセスは、ディール教の良き宣教師なのだ。
トランプは、24時間でロシア・ウクライナの戦争を終わらせると、約束したではないか?ガザを中東のリビエラにするはずだったではないか? トランプのぶち上げた平和プランは何一つ実現していないけれど、それでも、トランプ大統領の下に生きる私たちは「信じられないほど幸運」なのだ。〈ムノーガハドヴォチカ〉、一歩一歩、最終的平和に向かう、確かなステップなのだから!

――〈ヴェルティカル・ヴラスティ〉
「権力の垂直的統合」とでも訳せるだろうか。中央集権などという生やさしいものではない。
すべての富と権力の源泉はプーチン一人にある。
プーチンとのつながりだけが、富と権力を保証してくれる。
ひとたびプーチンのご機嫌を損ねたら、丸裸にされ、命も危ない。
一人にすべてが集中する、水ももらさぬ独裁支配システムだ。
でも、振りかえって見ると、プーチンが登場する前のロシアは、マフィアと成金が富をひけらかす、弱肉強食社会になりはて、人々は貧困と治安の悪さにおびえていた。

「祖国を許せないまま死ぬのがつらい」と語るバクダノフスキーさん

かつて民主化のために闘った友人は、ロシアのカオス化に失望したためか、癌にかかり、最後に会ったときは、「死と臨終の苦しみは怖くないが、祖国を許せないまま死んで行くのがつらい。こんな国を子供たちに残すのかと思うと、罪の意識にさいなまれる」と言った。
エリツィン大統領自身、1999年12月31日、ロシアをプーチンに委ねる際の辞任スピーチで、「親愛なるロシアの市民の皆様。私は多くの過ちを犯しました。今日、私は皆様に、この国を苦境に陥れてしまったことについて、謝罪します。皆様の夢を全て実現できなかったことについて、お許しください。」と涙を流した。
カオスの底に沈む人々が、「もう少し秩序を!」と、権力にあこがれる気持ちに乗じて、プーチンは、地方の自治権を奪い、裁判所も議会も大統領の意のままに動く機関に変え、着々と「権力の垂直的統合」を遂行したのである。

トランプがプーチンを敬愛するのは、かくも見事な「権力の垂直的統合」を成し遂げたからだろう。二期目のトランプ大統領は、さっそくプーチンを見習って、裁判所も議会も存在しないかのような、垂直的専制政治を軌道に乗せた。裁判所が、大統領のやったことを違法だと裁いても、議会に諮らず戦争を始めても、トランプを止める力はどこにもない。

悲しげなジェラルド・カーティス氏(日本記者クラブ提供)

日本記者クラブで会見した、ジェラルド・カーティス、コロンビア大学名誉教授は、「いま起こっているのは、80年ぶりのトランスフォーメイションであり、トランプによって戦後秩序は終わった」と、悲痛な診断を下した。

ドナルド・トランプは保守主義者ではなく、革命家です。根っこからアメリカを変え、世界を変えようとしている。毛沢東の文革に相当する、文化大革命のアメリカバージョンを、今やろうとしているのです。……三権分立を弱めて、権力を行政府、と言うより大統領個人に集中しようとしている。4ヶ月で確実にこの方向に動いています。そしてけっこう成功しています。(「戦後80年を問う」(7) ジェラルド・カーティス コロンビア大学名誉教授、5月22日、日本記者クラブ

――〈シロヴィキ〉
直訳すると「力の人(複数)」。市民を暴力的に支配する特権階級である。プーチン自身KGB出身だったし、プーチンのロシアを理解するかなめになるのが、〈シロヴィキ〉だ。その中味は、警察、国境警備、軍、治安警察、スパイ機構。そのメンバーは、体制奉仕の見返りとして、早く年金生活に入れる、たっぷりの給料、汚職や残虐行為をしても罪に問われない特権が与えられる。

では、アメリカは? もともとロシアの〈シロヴィキ〉に通じるところがあったのでは?
クリント・イーストウッドの「ダーティー・ハリー」みたいに、ルールを破ってでも、ホシをしとめる荒っぽい刑事が、アメリカ人のお気に入りに見えるし、実際、警官が無実の黒人を殺しても、お咎めなしの特権があった。
2013年、アメリカ国家安全保障局(NSA)が、全世界の電話を盗聴、インターネットを傍受し、厖大な個人情報を集め、市民のプライバシーを監視している証拠を、NSA職員のエドワード・スノーデンが大新聞を通じて暴露した。
第二次トランプ政権になると、無法な取り締まりは日常化し、永住許可されたコロンビア大学の大学院生(アルジェリア出身)を、令状を持たない私服捜査官がひっさらって投獄するなど、マリアさん、ダンさんにとってロシアで「見慣れた」シーンが、アメリカでもくり広げられるようになった。

押し倒され手錠をかけられるアレックス・パディーラ上院議員(ユーチューブから)

アメリカ版〈シロヴィキ〉の捕り物は、ハリウッド映画なみに華々しい。上院議員アレックス・パディーラ氏が国土安全保障長官の記者会見で質問しようとしたら、治安警察に引きずり出され、腹ばいにされて手錠をかけられた。パディーラ氏は、『ニューヨーク・タイムズ』に投稿し、「私を選んだカリフォルニアの選挙民は、自分たちの議員に手錠がかけられたのを見て、どう思うだろう?『上院議員でさえしょっ引かれるのだから、あえて声を上げようとするアメリカ人は、だれであれ、どんな目にあうか想像がつく』と考えるに違いない。」と、警告している。
同じ6月に、ニューヨーク市の会計監査官で、市長選に立候補しているブラッド・ランダー氏も、令状なしに手錠をかけられ連行された。
ロシアの〈シロヴィキ〉なら、目障りな政治家は白昼暗殺するのだから、それにくらべれば、人気政治家の手錠姿を見せしめにするなど、アメリカは、まだ手ぬるいのかもしれないが……

――〈Near abroad〉

この言葉は、ロシア語でなく英語で表記されている。日本語で、「近くの外国」などと訳しても、さっぱり分からないが、〈Near abroad〉は、ソビエト連邦の構成国を指す一種の婉曲表現だ。ロシアが支配し、NATOの侵略から守ってやるべき半独立国という含みが、この語にこめられている。ヒトラーの「生存圏」とか、満蒙は日本の「生命線」といった呼び方にくらべると、当たりは柔らかい。

アメリカも、この柔らかな言葉が気に入ったらしく、米軍の内部文書で、グリーンランドとパナマを記述するのに〈Near abroad〉が使われた。トランプ政権がグリーンランドとパナマについて論じる言葉使いを聞くと、マリアさんもダンさんも面食らうそうだ。「その国の主権を否定し、国の弱さをあざ笑い、戦争中ナチの侵略から守ってやった、昔の恩義をふりかざす」――ロシアがウクライナに戦争を仕掛けたときの、プロパガンダの論法そっくりだったからだ。
マリアさん、ダンさんは、「ロシア外交の怪しげな用語だった〈Near abroad〉が、いまや、アメリカの国策を象徴する語彙にまでのし上がった。」と呆れる。

ロシア皇帝ミハイル1世(1596-1645)

〈良きツァーリ、悪しき貴族〉
遠い昔からロシアの民衆は皇帝を敬愛し、政治が悪いのは、皇帝ではなく側近の貴族のせいだと信じてきた。ツァーリは賢く、慈悲深いのに、腐敗した貴族どもが、皇帝の尊いおはからいを、妨害しているのだと。
クレムリンのプロパガンダは、〈良きツァーリ、悪しき貴族〉の民衆信仰を、みごとによみがえらせたので、多くのロシア人は、「プーチン大統領が私たちの苦境を知りさえすれば、かならず助けてくださる」と信じている。〈良きツァーリ〉を演出するため、プーチンが一般国民と対話するテレビ番組もあるし、国民の側も、プーチンに向かって訴える映像を自分で録画し、インターネットを通じて大統領府に送ったりもする。
〈良きツァーリ、悪しき貴族〉の好都合なのは、民衆の怒りがつのったとき、簡単にスケープゴートをつくれることだ。大臣や地方官僚をクビにしたり投獄したりして、悪い政治は、無能で腐敗した連中のせい、プーチン自身は彼らと闘う〈良きツァーリ〉だと宣伝するだけで切り抜けられる。

アメリカではどうだろう? トランプの言うことなら、何でも無条件に支持する熱狂的信者が、一千万人はいることだし、失政をスケープゴートづくりで切り抜ける〈良きツァーリ、悪しき貴族〉戦略は、アメリカでも立派に通用する。
巨大な役所を解体し、数万人を解雇した政府効率化省への風当たりが強まると、トランプは行革に距離を置き、旗振り役のイーロン・マスクと縁を切った。今後、続々と〈悪しき貴族〉が生贄に捧げられるに違いない。

さて、二人の亡命者の文章、最後の一節は痛切だ。

ロシア生まれのこんな言葉が、いまアメリカの政治にあてはまるのは、非常に気がかりだ。しかし、私たちを信じてほしい、あなた方の国が破滅に向かうのを、言葉を発せず傍観するより、起こっていることに呼び名を付けるほうがましだと。

ロシアで失ったものを求めてアメリカに来たのに、アメリカでもそれが失われるのを目撃するのはどんな気持ちだろう。

思い出すのは、2度「祖国」を失って自殺を試みたイラン人だ。モスクワ郊外の森に、戦後の買い出しみたいなリュックを背負って現れる精悍な男で、いつもぼくと同じ場所で弁当を食べるうち、身の上話を聞かせてくれるようになった。かつてイラン共産党員として闘ったあとソ連に逃れ、モスクワ放送で働いているという。ところがソ連崩壊後しばらくしてぱったり彼の姿を見なくなった。次に見かけたのは翌年の夏、大男のイラン人が可憐な黄色い花をはさみで切り集めているところで、こんな告白をした。「毒を飲んだのだよ。でもこの花が私の命を救ってくれた」。
ソ連が共産主義を捨てたとき、このたくましい男は第二の祖国を失い、生きる希望を失ったのだ。

(2025/7/15)