トーマス・ヘル(ピアノ)プロジェクト 2025 II J.S.バッハ&ショスタコーヴィチ|秋元陽平
トーマス・ヘル(ピアノ)プロジェクト 2025 II J.S.バッハ&ショスタコーヴィチ
2025年5月29日 Toppanホール
2025/5/29 Toppan Hall
Reviewed by 秋元陽平(Yohei Akimoto)
Photos by 長澤直子(Naoko Nagasawa)
〈演奏〉 →Foreign Languages
トーマス・ヘル(ピアノ)
周防亮介(ヴァイオリン)
水野優也(チェロ)
竹原美歌(パーカッション)
ルードヴィッグ・ニルソン(パーカッション)
竹泉晴菜(パーカッション)
〈曲目〉
ショスタコーヴィチ:ピアノ三重奏曲第2番 ホ短調 Op.67
J.S.バッハ:トッカータ ニ長調 BWV912
ショスタコーヴィチ(デレヴィアンコ編/室内楽版):交響曲第15番 イ長調 Op.141a
ピアノ三重奏は逃げも隠れもできない真っ向勝負のジャンルという印象がある。チャイコフスキー然り、フォーレやラヴェルもまた然り。アイロニーやパロディに満ち満ちたショスタコーヴィチでさえ、この形式にあってはどこかストレートな物言いを感じる。
この点、トーマス・ヘルを挟む形で、若い2人の弦楽器奏者は、引き絞られた弓のような緊張感を保ったまま、終始白刃の上を歩くようにしてアンサンブルを展開し、聞き手も間断なく集中を要求されるのだが、率直に言えばこのアプローチからは、この三重奏にも本来埋め込まれているユーモアの射程や引用の多層性はあまり見えてこず、苦悶の表情の一本道がずっと続くような苦しさがあった。
ここから心理的に聴衆を解き放ってくれたのが、若きバッハによるニ長調のトッカータだ。
ニ長調の輝かしい光が、諜報国家を生きた芸術家の息苦しい独白のムードを一掃する。トーマス・ヘルはここで一転してきわめて闊達な弾きぶりを採用し、前曲の抑制的なアプローチと好対照をみせる。清新な走句の数々は、7曲のトッカータに通底するバッハの若々しい野心に満ちており、彼自身の音楽家としての天命への信頼と、それを世に知らしめることへの明るい希望を感じさせ、そこでもまた二重言語に満ちたショスタコーヴィチとの対比が鮮烈だ。
ショスタコーヴィチの音楽は政治的運命によって引き裂かれた叫びのようだ、というようなことはよく言われるが、音楽の水準でそれが何を意味するのかはしばしば定かではない。また交響曲第15番ではこの点、直接的な政治的重圧や戦争の主題から相対的に解放され、より自由な自叙伝的要素が見られるということもまたよく言われるのだが、改めてトーマス・ヘルと若い演奏家たちによる室内楽編曲の実演と向き合ってみると、その15番には、なかなかどうして治癒不可能なほどにねじくれ、ほとんど心の内奥と一体化し、古典主義的な端正な佇まいさえ獲得したアイロニーを感じずにはいられない。そうしてみるとショスタコーヴィチの音楽は、作曲当時の政治的布置や検閲の危険によって本音と建て前の二重性を強いられてきたと同時に、あるいはそれを内面化しながら自己形成をはかったことによって、そもそも本音それ自体に分裂をもつのではないか。彼がしばしば引用するマーラーもアイロニーの大家だが、マーラーが持ち出す葬送音楽や通俗音楽、さまざまな道化的引用は、既に音楽の本筋と相当程度混じり合ってはいるのだが、まだ引用の格好を保っており、それらが楽想に「侵入」してくる場面を識別できる。ショスタコーヴィチにあっては、音楽的諧謔と悲痛な訴えは交代したりせめぎ合ったりするどころか、しばしばまったく切れ目無く接続される。二つ以上の言葉を圧縮して作られる造語をカバン語と言うが、まさにそんな風にして反対のニュアンスをもつはずの音楽の最小単位が連結される。こうしてひとつの単語とて両義性を孕まぬものはなく、心張り裂けんばかりの話し始めが、語尾で引きつった笑いに変わっている。第四楽章最後のほうで、第一楽章劈頭のモチーフがチェレスタによって再び持ち出されるのだが、フレーズの始まりと終わりがつながってぐるぐる循環させられるところもこの過剰接続の象徴という感じがする。全編をつうじてきわめて洗練された時間形式を聴き手に意識させ、よくもまあ最後の交響曲がこのような異形の音楽に仕上がったものだと思う。
ここまでプロジェクトに名前が冠されたトーマス・ヘルも含め、特定の奏者にほとんど触れる余裕がなかったが、そもそもそういうプログラムなのである。ヘルをはじめソリストとして華々しく活躍する技量を持った演奏者たちがみな、滅私的なまでにショスタコーヴィチの音楽の厳しさに向き合っており、その真摯さに感服するほかない(ただ一言加えるなら、第2楽章のチェロ・ソロは素晴らしかった)。これは編曲そのものに関することなのだが、原曲(交響曲)では指揮者の采配もあって際立つ切断的なモーメント(ある楽器が他の楽器を遮る、楽想が暴力的に変化する…)が、少人数で協調的なアンサンブルを強いられる本編曲では退潮し、ばらばらの破片が飛び交うような迫力が薄れると感じる場面は多かった。それでもなお、わたしは本演奏会に強い印象を受け、まったく退屈することがなかった。さまざまな思念に駆られ、それはまず先述のとおりショスタコーヴィチというひとの芸術性をめぐることでもあるが、根底にはやはり、なぜ音楽を聴くのか、という問いがある。二人の真摯な若いソリストと、自らの名を冠したプロジェクトでいわば複雑な裏方仕事に徹したトーマス・ヘル、そして打楽器奏者たちの水も漏らさぬ緊迫は、彼ら演奏家の自己表現や作曲家の崇拝によるものではなく、大きく言えば人間の謎を解き明かそうとするときの緊迫だろう。他方で、聴くほうとてそう楽ではないこのプログラム、それでも芸術家の聴覚的自己抽象化という、よくよく考えれば奇矯とも思えるこの交響曲の試みに、神経をすり減らしても付き合おうと思わせる何かを聴衆もまた確かに見いだしているのだ。
(2025/6/15)
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〈Performance〉
Thomas Hell, pf
Ryosuke Suho, vn
Yuya Mizuno, vc
Mika Takehara, perc
Ludvig Nilsson, perc
Haruna Takeizumi, perc
〈Program〉
Shostakovich :
Trio for Violin, Violoncello and Piano No.2 in E minor Op.67
J.S.Bach:
Toccata in D major BWV912
Shostakovich(arr.Derevianko / Chamber Version):
Symphony No.15 in A major Op.141a