東京都交響楽団 第1020回定期演奏会Aシリーズ|齋藤俊夫
2025年4月30日 東京文化会館
2025/4/30 Tokyo Bunka Kaikan
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by (c)堀田力丸/提供:東京都交響楽団
<演奏>
指揮:下野竜也
男声合唱:東京混声合唱団
合唱指揮:平川範幸
コンサートマスター:水谷晃
<曲目>
トリスタン・ミュライユ:『ゴンドワナ』
夏田昌和:オーケストラのための『重力波』
黛敏郎:『涅槃交響曲』
どんな種類であれ、苦と危険の観念を喚起するものは何でも、すなわち、あらゆる種類の恐ろしいもの、もしくは恐ろしい対象と関係があり、危険と類似した仕方で働きかけるものは何でも、崇高の源泉となる。つまり、それは精神が感じられる最も強力な情緒を生み出すのである。1)
過度な大音量だけが、魂を圧倒し、その動きを停止させ、それを恐怖で満たすことができる。2)
200年前、ベートーヴェンの第五交響曲(作曲年1807-08)を聴いた作曲当時の人々はそこに「崇高」を見出さなかっただろうか? 今でこそ当たり前のように鳴り響くあの「ジャジャジャジャーン!」の響きが人類史上初めて生れた瞬間の「恐ろしさ」「危険」が生み出した「崇高」の感覚。それを、もはや新しい芸術などないなどと退嬰的退行に逃げる現代ポストモダニズムは忘れ、諦めてしまったのではないだろうか? 今回の「スペクトル楽派三題」はそんなポストモダニズム的退行を殴り倒して蹴飛ばしてしまう実に「恐ろしく」「危険」な「崇高」の音楽体験であった。
トリスタン・ミュライユ『ゴンドワナ』、ゴンドワナとはプレートテクトニクスによって現在の大陸ができる以前の超大陸の名。
冒頭から、粘り気の多い音響の繭が膨張・収縮を繰り返している様を謹聴せざるを得ない。その繭から弦楽や金管や金属打楽器の光が放射され、そしてオーケストラ全体が繭を破るように光を会場に溢れ出させる。個々の奏者、パートに目を向けると(耳を向けると?)どんな音をどんな風に発しているのかよくわからないが、全体としての音響体は実にはっきりとしたゲシュタルトを持って受け取れる。
いつの間にか光輝は失せ、静けさが会場を包み、点描的に、ナーバスな響きが支配的となる。このあたり、黛敏郎の『涅槃交響曲』の一部分を想起したのは筆者の間違いであろうか? だが息音やハーモニクスの細い光る糸が何条も会場を走り始め、やがて糸はテクスチュア、織物を編み、さらに広がって海と化し、水面が波打ち煌めく。
スラップスティックの一打から全ての音が下行していき、地がせり上がり、重い轟音が火山の噴火か大地震かと恐怖を掻き立てる。
地の振動が治まり、儚くほの光る高音が綯われ漂い、光が増し、さらに仄かに消えゆく……。崇高にして切ない一大地質学史音楽劇であった。
夏田昌和『重力波』はステージ上に3部隊、客席上手と下手に1部隊ずつ打楽器が配置され、そのステージ上の1部隊と客席の2部隊のバスドラムが全曲を通じて「重力波」を発する巨大な重力源と化していた。
冒頭、全てのバスドラムが3方からロールや特殊奏法で音として認識できる振動以下の空気の振動を会場中に響かせる。これは録音ではどうやっても感じられない体験だ。バスドラムの音が鳴動する中に、バスドラムの音を核として他の楽器によってオーケストラ全体のゲシュタルトが形成される。しかしそこから逸れる、大小様々な異音がたくさん混じって耳と頭がこんがらがりそうになるが興奮して全集中で聴き込んでしまう。バスドラムを叩くのが一旦止められるとオーケストラはメゾフォルテくらいの音量であり、コレハナンダとその聴覚的魔術に驚かされる。
そして微分音混じりだと思われる聴いたことのない音響の弦楽器の上行をアンティークシンバルが止め、木管と金管が高々と吠えつつ音高が下がっていく。
ピアノの連打や弦のトリルやアルペジオやグリサンドの靄なのか光なのかわからない音響の中で木鉦や金管が鋭く切りつけてくる。ここまでくるともう何と言うかその圧倒的コスモロジーは湯浅譲二やヴァレーズを彷彿とさせて感無量の気がしてくる。とにかく何かデッカイ音楽の中にオレはいるのだ、という充実感。
そしてバスドラムが「ドン!」、ゲネラルパウゼ、「ドン!」、ゲネラルパウゼ、「ドン!」、ゲネラルパウゼ、「ドン!」、ロール、「ドン!」、ロール、「ドン!」オーケストラトレモロ、etc…etc…この曲のアルファにしてオメガたるバスドラムの強打の圧倒的重力波を浴び、バスドラムが減衰していき、了。
恐るべき音楽であった。先述の通り湯浅譲二やヴァレーズの傑作にも比すべき傑作、そしてそれが「現代音楽」としては異例なことに初演後に再演された、ということにも賛辞・感嘆の言葉を述べたい。これは2度とは言わず3度でも4度でも演奏されて世界中に広められて良い音楽のはずだ。
日本現代音楽史上の一つの達成たる黛敏郎『涅槃交響曲』、第一楽章『カンパノロジーI』、舞台上の点描的音列的部分に主にバンダの鐘の音がかぶさる。フルートやトランペットの読経的メロディーの音が垂直に立ち上っていく。ピアノが鐘の和音(黛は合音と言ったらしい)、これはメシアンに似ている。最後に全体で特大の鐘の音を轟かせ、山の向こうからの木霊の余韻を聴くようにして終わる。
第二楽章『首楞厳神咒(しゅれんねんじんしゅ)』、「なふれんねんういじょうじほぞ」という聲明を模したソロ(伴奏なし)と読経を模したレスポンソリウム(こちらにはオーケストラの伴奏が入る)の合唱に始まる。「なむぼぎゃぼぎ」のソロとレスポンソリウムを経たりして、次第に合唱とオーケストラの音が重なり合っていき、宇宙的な虚空と星々の煌めきの一大音伽藍が作り上げられていく。ただし、低音の合唱は一分の一拍子ともいうべき同拍、同テンポ、一拍一音が続き、そこにシェーンベルクの『管弦楽のための変奏曲』もかくやというオーケストラが絡まり合って凄いことになる。その音楽に宗教的厳粛さを感じるのは筆者が日本人だからだろうか? 人類共通の感覚だろうか?
第三楽章『カンパノロジーII』を改めて生で聴いたらラヴェル的と感じたのは間違いか?あるいは新ウィーン楽派の音色旋律。いずれにせよ黛の音楽が戦後よりも戦前(生涯の師を伊福部昭としていたように)にルーツを持っていた証左となるのではないか?
第四楽章『摩訶梵』6人での「もこほじゃほろみ」の高らかなヘテロフォニー的受け渡しにバンダが鐘の音を合わせる。そこから声を絞っての合唱の「もこほじゃほろみ」から第五楽章へ。
第五楽章『カンパノロジーIII』一気にクレッシェンドして会場全体で鐘の音が鳴り響き、合唱が「おー!おー!おー!おー!おー!おー!」と叫びつつデクレッシェンド。また舞台、バンダともにシェーンベルク張りの管弦楽法でクレッシェンドして「おー!おー!おー!おー!おー!おー!」でデクレッシェンド。たまらない宗教的恍惚感に酔う。
第六楽章『フィナーレ』(筆者の所蔵するCDでは『終曲(一心敬礼)』とある)全員斉唱による「おおーおおおーおおーおー」というごく単純な歌が弱音から始まり、クレッシェンドしての舞台、バンダともに全演奏者・全歌手による有頂天からデクレッシェンド、そして涅槃寂静の了。圧倒的であった。
黛敏郎がテレビ番組「題名のない音楽会」で師・伊福部昭を招き、伊福部の『交響譚詩』の冒頭を聴いて目を潤ませてしまう動画を見たことがある。彼は『交響譚詩』を聴いたときの「崇高」な感覚を一心に抱いていたのだろう。「恐ろしく」「危険」な音楽の「崇高さ」を求めて、まだ現代音楽の歴史は進む。筆者もそれにどこまでもついていきたい。
1)エドマンド・バーク『崇高と美の起源』平凡社ライブラリー、2024年(原著1759年)、48頁。
2)前掲書、100-101頁。
(2025/5/15)


